ひとつの謎として――宮崎駿のいまだ語りえぬ「母」
下記日記の続き。
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20080907/p1
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20080907/p2
- 単体の作品としてみるとひどくバランスを欠いた奇妙な作品になってしまっている
- だが宮崎作品の流れの中ではとても興味深い要素がいくつか見られる
- そのうちいくつかは宮崎駿の表現の本質に肉薄するものかもしれない
という自分の感想に対して、ここでは『崖の上のポニョ』を手がかりとして、宮崎駿作品における「母性」イメージについて若干の考察を試みる。
その手がかりとは:
(以下ネタばれ注意、リンク先はすべてPCサイト)
まず、ポニョの母親で母なる海の女神として登場するグランマンマーレというキャラクターについて。
http://www.ghibli.jp/ponyo/press/character/
このキャラを見た瞬間「あ、この人、ジーナじゃん」と思った。ジーナとは、ご存知『紅の豚』の飛行艇乗りのマドンナ、ホテル・アドリアーノの女主人マダム・ジーナだ。
画像検索→google:image:マダム・ジーナ
マダム・ジーナはアドリア海一帯の飛行艇乗りおよび“空賊(飛行艇を操る空中海賊)”たちのマドンナであると同時に、彼等の“心の母”的な存在でもある。作品中でジーナが繰り返す「まったく男どもときたら…」という類の台詞がそれを端的に表わしている。
グランマンマーレは海の生き物全ての母親であると同時に、嵐や津波、(女性性の象徴である)月と連動した潮汐力といった海洋のエネルギー、そして生命を生み出す原初のエネルギー“生命の水”の源であり、そのエネルギーの一部からフジモトがポニョとその妹たちを創造したとされる*1。
そして、同一人物か親戚か姉妹かと見まごうばかりに似ているこの二人の“マドンナ”は、風貌が似ているだけでなく、それぞれの物語で、なぜか同じ役割を担っている。
その役割とは、
祭りの終わりを告げる者
とでも呼ぶべきものだ。
『紅の豚』の終盤、ポルコとカーチスの決闘*2に決着がついた後、マダム・ジーナは、空軍が鎮圧に来ること、自分のホテルで歓待することを告げて観客や空中海賊を解散させる。
『ポニョ』の終盤、グランマンマーレは宗介の母リサと話し合い、ポニョを人間の子供の姿に固定することによってその魔法の力を封印することを決めた後、これで世界はバランスと秩序を取り戻し崩壊を免れた事を高らかに宣言する。
祭りの終わりを告げる聖母。
これはいったいどう解釈すればよいのだろうか。単純に考えれば、ハレ→ケへの収拾、カオスをコスモスに終息させる役割、と考えることができる。ただ、俺にはどうもそれだけじゃないような気がして、正直まだ答えが見えてこない。
そしてもう一人。
デイケアセンター「ひまわりの家」の気の強い老女「トキさん」
http://www.ghibli.jp/ponyo/press/character/
プロデューサーの鈴木敏夫によると、このトキさんは宮崎監督のご母堂がモデルになっているらしい。
「ポニョ」を読み解く4大キーワード:プロデューサー発言に見る、「ポニョ」を読み解く4大キーワード
http://eiga.com/movie/53305/special
また、これまでの宮崎作品の主人公は“母親不在”だったことを考えると、母子関係を描いたということは大きな変化。さらに、作中に登場するトキというおばあさんが、監督にとって重要な位置づけにある。
「宮さんのお袋さんは71歳で亡くなられていますが、今年1月に67歳になった宮さんが昨秋、『いつお迎えが来てもおかしくない年になった。(自分が死んで)お袋と再会したら、何を話そう』と言っていました。トキさんというキャラクターは宮さんの母親がモデルだと公言していましたが、その胸に飛び込んでいく宗介は宮崎駿そのものかなと」
『ポニョ』における「トキさん」というキャラの位置づけは、
ただ一人、覚醒している人
である。
『ポニョ』の物語の中では、津波によって水没した街の人々は、なぜか異変を泰然として受容してしまう。水没した街からボートで避難してきた人々は、悲壮感や殺気立った様子など微塵もなく、なぜかやけにノンビリ・まったりしている。避難民の母親は赤ん坊を抱いて日傘を差して、まるで舟遊びをしているかのようだ。水面下には怪物のような古生代の古代魚が蘇ってウヨウヨと泳いでいるのに、である*3。「ひまわりの家」の老女達は“生命の水”のパワーの余波で健康を取り戻して車椅子から立って走れるまでになり、少女のようにはしゃぎあう。
トキさんは、そんな世界の変貌にただ一人「あらがう人」として描かれる。トキさんだけがポニョを「化け物」とみなし、海の異変を「禍い」と受け止めている。魚の形態のポニョをひと目見るなり顔を背けて「まぁイヤだ、人面魚じゃないの」と言い放ち、老女達のハシャギ振りを忌々しげに眺めて「騙されるんじゃないわよ!」と叫ぶ。
鈴木敏夫のいうとおり「トキさん」が宮崎駿のご母堂がモデルだとすれば、このキャラクター設定と言動は、実在したその人の影を色濃く反映していると考えるのが妥当だ。
(出典を失念したけど)宮崎監督のお母様はあの年代の女性にしては珍しく非常に弁の立つ人で、血気盛んなサヨク青年だったパヤオ氏はあるとき、お母様と政治や共産主義の論争になったのだが、コテンパンに論破されてしまってパヤオ涙目、というようなエピソードもあったらしい。
さて。
グランマンマーレとトキさんに共通するのは、「醒めている母」というイメージだ。
これは世間一般および多くの文芸作品・エンタテインメント作品で表出するいわゆる「母性」のイメージとは、大きく異なるもののように思われる。
鈴木敏夫が“母親不在”と指摘するとおり、宮崎作品の中から「母性」をキーワードとして読み解けるものは、実は非常に少ない。
ちなみに宮崎アニメには、ロシア/イタリア系のオッパイとオシリがドーンと大きくてどっしり構えていて亭主をどやしつけたりする“肝っ玉母さん”的な母親像がよく出てくるが、あれは宮崎駿の“アカ属性”、つまりサヨク的視点から見た「逞しくも好ましい“人民”像」のバリエーションのひとつであって、宮崎本人の実存と直に繋がっているものではないのだと思う。
宮崎作品における“母性イメージ”は少なくて分かりづらいので、変な例えだが、理論上は存在するはずの未知の素粒子とか、天体からの光線や電磁波の歪みから存在が推測されるブラックホールのようなもので、状況証拠や痕跡や重力/引力の存在から類推していくしかない。
そしてその“重力”は“負”の方向に働く力を帯びていることが多いように思われる。
すなわち。
宮崎作品では“母性”を象徴するものについて意外なほど「不穏」「不吉」なイメージを持つものが多い、ということである。
例えば、コミック版『ナウシカ』の最終巻で、ヒドラのテレパシーによる精神攻撃を受けて唐突に挿入される「私は母に愛されなかった」というナウシカのトラウマの述懐。
例えば、複数の作品で繰り返される“有毒な羊水”というイメージ、および「羊水に包まれること」への強い禁忌。
“子宮/羊水への警戒”という奇妙なオブセッションが宮崎作品には頻出する。
- 『もののけ姫』の首を落とされたダイダラボッチから溢れ出る死をもたらす半透明の粘液。
- 精神的に落ち込んだハウルが自ら分泌して身体を包み込み自閉しようとする緑色の粘液。
- コミック版『ナウシカ』の“王蟲の漿”。
“王蟲の漿”とは王蟲の体内奥深くから分泌されるゲル状の粘液で、肺まで浸すことにより腐海の瘴気内での呼吸が可能になる物質だ。ナウシカはこれに包まれることにより腐海の“大海嘯”のカタストロフを生き延びるものの、心神喪失状態に陥り、民衆は伝説的な秘薬である“漿”を奪い合って集団ヒステリー状態に陥る。
この“王蟲の漿”は、『エヴァンゲリオン』のエントリープラグに満たされるL.C.L.溶液と同じ役割であることに注目すべきだ。宮崎駿の“子宮/羊水への警戒”というオブセッションは、母体回帰願望に溢れている『エヴァ』とは鋭く対立するし、宮崎が『エヴァ』を否定する理由も恐らくそこにある。
そして『ポニョ』の“生命の水”も、この“危険な羊水”の系譜にあるのは言うまでもない。
さて。
宮崎作品における特異な母性イメージ:
- 醒めている母。
- 有毒な羊水。
- 胎内回帰への禁忌。
- 子宮/羊水への警戒。
そのいずれもが、母性との
- 葛藤
- 確執
- 相克
- アンビバレンス
という「負の引力」を示唆している。
そもそも、作品から「母性」をキーワードとして読み解ける要素が非常に少ないという事実そのものが、宮崎駿にとって“母なるもの”はいまだ語りえぬものであり、作品に昇華しきることのできない深い“宿業”である事の証明に他ならないのではないだろうか。
ここまできてようやく、俺は『ポニョ』という奇妙に破綻した作品の全体像を総括することができるような気がする。
俺は先日までの日記で、『ポニョ』を
- ひどくバランスを欠いた奇妙な作品
- 困惑させられる
- 狂ってるとしかいいようがない
などと評した。この評価は未だに変わらない。作品としては破綻していると思う。
以上の考察を経てみた後では、これら『ポニョ』における作品としての「統合」の「失調」は、宮崎がかねてから忌避してきた2つの要素:「恋愛」と「母親」の導入によってもたらされた、と結論付けざるをえない。「恋愛」「母親」以外の要素はすべて付け足し・枝葉末節のように思われる。
だからいま、あらためて公式サイトに掲載されている作品の意図や背景の解説や時代/状況論を読んでみると、もはや、あいも変わらず説教臭い、空疎な御託としか思えない。
特に、「神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」という戯言については、
ア ン タ が い う な
と声を大にして言いたい。
ともあれ。
宮崎駿はかつて禁忌としていた「恋愛」と「母親」を語り始めた。その目論見は今回無残にも失敗に終わった。だが『ポニョ』は、作品としては破綻しているものの、後世、10年くらい後に宮崎論をものす時には「あの作品が分水嶺だった」と評価される作品になるのかも知れない。
以上終わり。
*1:なお非常に興味深い指摘として、ポニョ/グランマンマーレ達と、H.P.ラブクラフトの“クトゥルー”族の近縁を指摘するブログがある:『崖の上のポニョ』クトゥルー神話 - てすかとりぽか http://budouq.blog5.fc2.com/blog-entry-625.html
*2:この決闘だけど、弾切れ→工具や金具を投げ合う→地上に降りて殴り合い…って、モロに松本零士の戦場マンガのパターンだよね。盗作にウルサい松本センセイは何も言わなかったのだろうか?
*3:自然に埋没しジャングル化する都市+なぜかそれを受容する人々、という構図はJ.G.バラード(末期癌なんですってね…なんとも残念です)の破滅テーマSFを彷彿させるし、一部のブログで「ガロ」に載るような幻想マンガっぽい(たけくまメモ:宮崎駿のアヴァンギャルドな悪夢 http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html )と評されるのも頷ける。