デレク・ベイリーがもたらしたもの

ベイリーの凄いところは、一つ一つの音が、完全に孤絶しているところである、とはよく言われるところだ。今出した音は、一瞬前に出した音と全く断絶している。そして今出した音は、次の一瞬に出す音と、何の関係も結ばない。
一瞬ごとの記憶喪失。この何ものをも表現しない演奏の最も良い例は、スティーブ・レイシーとのデュオ・アルバムだろう。ここで彼らは、互いに反応する、という行為を、全く放棄してしまっているように思える。自分自身の音にも、さらに他者の音にも、全く関係を結ばず、反応もせず、あらゆる意味から逃れでた音を勝手気ままに空中に投げ出しては、ふと沈黙する。この二人にどこか共通点があるとしたら、ほぼ同時に音を出し始め、ほぼ同時に終わる、というくらいなものだろうが、それだってレコードにする都合上、仕方なくそうなっただけのことかも知れない。

大里 俊晴 "I SING GUITAR ELECTRIC" (「W-NOtatin」(株式会社UPU)1986年6月号所収)

デレク・ベイリーの音楽に関して、ここまで簡潔に解説しきった文章が他にあるか、俺は寡聞にして知らない。大里さん、古い記事持ち出してすみません。このころはまだタコとかやってらしたころだと思いますが。

一瞬ごとの記憶喪失。まさにそうだ。ベイリーの演奏は常に、一歩ごとに音を切り落としていくというか、喪失していくような、そんな音楽だった。


唐突だが、宮崎駿のアニメを思い出してもらいたい。「未来少年コナン」でも「ルパン三世」でも何でもいいのだが。


主人公が、断崖絶壁で、氷や岩で出来た細い橋を渡ろうとする。今にも崩れそうな橋。壊さないようにトトトト...と何歩か渡って、ふと振り返って足元を見ると、さっき通った所から亀裂が入ってピキピキピキ...とこちらに向かってくるではないか。やばい。あわてて向こう岸に向けて走り出すと、その橋は後ろから追いかけるようにバラバラと崩壊し始め、走る主人公の真後ろに迫る勢いで崩れていく。「うわーーーっ」とか言って間一髪で渡りきると、橋はちょうど渡り終えると同時に全崩壊して、後には何も残ってない。ほら、そういうハラハラアクションシーンって、宮崎アニメの定番であるじゃないですか(わ、分かります...?(^_^;))


ベイリーの演奏とは、この“一歩ごとに足元が崩れていく”のを、自分の意思でやってるようなものだと思うのだ。


氷で出来た橋に踏み出す。くるりと振り返って、今来た後ろを向く。手には道路工事用のハンマー。足元に振り下ろす。ヒビが入り、砕け崩れていく氷の橋。そのまま後ずさるようにして進みながらハンマーを振り下ろし続ける。氷の塊は断崖絶壁の奈落の底に崩れ落ちていき、後には何も残らない。


ベイリーやレイシーのあの硬質な透徹したサウンドは、今自分が立っている氷塊を、自らの手で砕いていく、その音だ。そのように演奏にとりくんだ音楽家は、それ以前に存在しなかったし、初期インカス盤などでのベイリーやレイシーの演奏にみなぎる異様な緊張感は、このような営為によるものだと考えれば納得がいく。

より包括的で完全な即興演奏ののランゲージが発展することを切望し、かつ“力づくでも”そうしてみせるという気持ちから、私はソロという、外的情報の大幅に少ない、そして連続性に対する責任が自分に大きくのしかかってくる方法を試してみたのである。

デレク・ベイリー「インプリヴィゼーション:即興演奏の彼方へ」(工作舎)1981

ああ、それにしても、演奏に直接接することが出来なかったのは、悔やんでも悔やみきれない....。逝ってなならない人が、あまりにも沢山去っていった、この一年だった。