なかよしと世捨て人 ――『崖の上のポニョ』

さて、先日の日記で欠点を一通り書いたので、続いて宮崎作品の流れの中での位置づけについて。


雨宮まみさんのブログから。


ポニョ終映後の女子トイレにて - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20080731

ギャルA「あいつ何だっけ? 藤本? 名前ウケんだけど」
ギャルB「ウケる〜。でもさ、何かちがくない? 従来のジブリ路線とさ〜。いつもは何か深いテーマがあんじゃん。自然とか。今回はあれだよね、珍しく愛に行ったよね」
ギャルA「行ったね。でも、アタシは好きだよ」
ギャルB「でも前のジブリが好きな人は拒否反応とか示しそうじゃね?」
ギャルA「かもね〜」

ギャル語でなんと的確な要約(笑)。


その通り、あちこちで言及されているように、『ポニョ』は宮崎駿作品では初の、恋愛を物語の主軸に据えた作品だ。


そりゃ過去のジブリ作品でも、

  • 二人乗りの自転車で少女が少年の背中にオデコをコツン(『耳をすませば』)とか
  • 猫耳生えた女の子がほっぺをポッと赤らめる(『猫の恩返し』)とか

「恋が芽生える」シーンはありましたよ。しかしここまで男の子と女の子のロマンスを中心にした作品はかつてなかった。そしてその恋愛感覚は、宮崎駿を揶揄・誹謗中傷する際によく言われる「ロリコンペドフィリア」的なものとはだいぶ異なるものに思える。


その感覚とは、恋愛というよりはむしろ、


なかよし


としか形容できないものだ。


宮崎駿には、「なかよし」という関係性、つまり性的に未分化な年齢の男の子と女の子のつながりと絆に対する、強い憧憬またはオブセッションがあるように思われる。


例えばコナンがラナをおぶったりお姫様抱っこをしたまま軽快に「タタタタ・ピョーン、タタタタ・ピョーン」(ピョーンは障害物や裂け目を飛び越えるところ)と走るとか、ラナのウエストをつかんで“高い高い”をしながら「ワーイワーイ!」とか言ってぐるぐる回すとラナが飛行機のように両腕を広げて「アハハハハハ」と笑うシーンとか。ああいうのが宮崎にとっての理想の男女像なのではないか。


だいたいあのデフォルト設定が「女タラシ」のはずのルパン三世ですら、『カリオストロ』では、クラリスが「おじさまっ!」と胸に飛び込んできたにも関わらず、思わず抱きしめようとする腕を「ん…ぎぎぎぎっ…」とばかりにこらえて「ば〜かだなぁ」(山田康夫の声で再生して下さい)とか言っちゃったりするのである。某国の宮様も思わず萌えてしまう名シーンなわけだが、それはともかく、こういうのが宮崎流の「男の子の倫理」なわけだ。


ポニョは、
ある日不思議な出来事とともに遥かな異界から少年の元に現れる少女(ワンピース姿)
という意味でラナ(『コナン』)シータ(『ラピュタ』)の系譜にある女の子だ。


そのポニョが、人間の幼女に“進化”して再登場するシーン。


久石譲によるワーグナーの『ワルキューレの騎行』そっくりのファンファーレをバックに、M.C.エッシャーの騙し絵のように巨大な魚と波が融合したものがグネグネとのたくるなか、ニコニコと笑いながら駆けてくる裸足の幼女。


狂ってるとしかいいようがない。


このCMでもさんざん流れていたシーンから宗介に再会したポニョがプニュプニュしたホッペをムギュギュギュ〜っと押し付けて抱きつくところまで、『ポニョ』はこの数分間のシーケンスと、ひたすら宗介とポニョのなかよしシーンを描くためにあると言っても過言ではない。


そしてこの「なかよし」という関係性において、『ポニョ』には宮崎作品史上初の新機軸がある。


それは、
なかよしカップルの男の子のほうが、モテて守られる側である
という点だ。


「ぼくが守ってあげるからね」宗介はそう言うものの、宗介がホントにポニョを「守ってあげる」シーンは少ない。宗介のほうは「守ってあげてる」つもりになってるのだが、実際は状況に振り回されてオロオロウロウロするだけである(まぁ5歳の男の子だから無理もないのだが)。実は終始、宗介がポニョを守っているのではなく、ポニョが(身につけた魔術的なパワーによってひそかに結界を張ったりして)宗介を守っているのである。守られてるのはポニョではなく宗介。


それを端的に表しているのが宗介の目力(めぢから)の弱さだ。宗介の目は他の「なかよしの二人」の男の子のほう、コナン/パズーが湛えている真直ぐで凛とした目の力に及ぶべくも無い。コナンが眉をグッと持ち上げクワッと目を見開き肩を怒らせ胸筋をパンッとパンプアップさせて敵や障害に立ち向かうとき、またパズーが背をすっと真直ぐに伸ばしてシータと手を取り合って「バルス」を唱えるとき、観客はえもいわれぬ高揚感とカタルシスを感じる。宗介の目と行動から観客がそのようなカタルシスを得ることは、遂に無い。それがまたこの作品の“弱さ”の一つになってしまっている。モテてる側は受け身になりがちだからである。


さて。


宮崎駿の代表作・人気作の多くはご存知の通り、この「なかよしの二人」対「邪悪な世捨て人」の抗争、というかたちをとっている。


ここでいう「世捨て人」とは
人間とその世界を憎み/蔑み、それゆえに強大な力を欲する者
であって、古くは『長靴をはいた猫』の魔王から、レプカ(『コナン』)→カリオストロ公→バリエーションの一つとしてのクシャナ(『ナウシカ』)→ムスカ(『ラピュタ』)という系譜である。


これらの作品では、強大な力を行使して世界を組み従えることを企む「邪悪な世捨て人」の野望を、「なかよし」の少年少女が愛と勇気と正義感をもって立ち向かい遂に打倒する、という構造をもっており、どれも不変の人気を誇る。


だが。


「なかよし」も「世捨て人」も、「成熟の忌避」であると解釈すれば、「なかよしの二人」と「世捨て人」はコインの裏表に過ぎない。「なかよし vs 世捨て人」の闘争は、おのれの尻尾をくわえて回転し続けるウロボロスの蛇のように、解決することなく閉じた世界で永遠に繰り返されるしかない(それこそが、これらの作品が時の流れにも色褪せない永遠のマスターピースである所以でもあるのだが)。「なかよし vs 世捨て人」の完成形である『ラピュタ』が、人間世界から隔絶された閉鎖空間であるのは象徴的だ。


この閉塞感を打開するために導入されたのが、“世捨て人的なもの”は
「なかよしの二人」の片方の内面に巣食う心の闇
という物語構造だった。ここでは分かりやすい「倒すべき悪としての世捨て人」は表面上は姿を消し、「二人のうち一人が抱える心の闇を二人でどうやって超克するか」という内的闘争に変容する。


これが最初に試みられたのが『もののけ姫』における、反人間/反文明の先鋒でありながら紛れも無い人間の娘であるという引き裂かれた存在としてのサンであり、これはそののち、ハク(『千と千尋の神隠し』)→ハウルと連なる系譜となる。


だが。


この変容は、確かに単純な勧善懲悪ものという閉塞を脱して宮崎アニメに作品としての深み・奥行きというものを齎したとは言えるが、その一方で、内的闘争はどうしても内省的でセリフに依存したものにならざるをえないため、活劇的なダイナミズムは弱まり、派手なドンパチや高い所に追い詰められてからのハラハラドキドキの逃走劇を通じて観客が感じるカタルシスといったエンタテインメント要素は大きく失速することになった。


『ポニョ』もその流れを汲むものに他ならないが、物語の中心を「なかよしの二人の恋愛」に据えたため、また年齢が5歳と幼いので「心の闇」なんざ抱えようもないため、「世捨て人」は「なかよしの二人」の内面からは押し出され、外部の存在としてあらためて造形されることになった。


だが、宮崎駿には「世捨て人」を再び「強大な力を欲する邪悪な倒すべき敵」に設定してしまうことはもうできない。


そこで『ポニョ』では新たなキャラクター設定が試みられた。


それは、「世捨て人」+「頑固な技術者」としてのフジモトである。


ここでいう「頑固な技術者」とは、
手に職を持った職人もしくは技術職で、気難しく口煩く近づきづらそうだが、徐々に主人公を助けてメンター(導師)的な役割を果たす者
であって、ガルおじさん(『コナン』)→タイガーモス号のじっちゃん(『ラピュタ』)→ピッコロおやじ(『紅の豚』)→釜爺 (かまじい)(『千と千尋』)etc…という系譜である。


フジモトは、マッドサイエンティストが世界の根源への探究心が高じて“人間を辞め”半分人間・半分魔法使いのようになっている存在なわけだが、せわしなく落ち着きなく機械を操作する所作や、コミカルな狂言回し的役どころなど、宮崎駿が好んで描く職人/技術者像の流れを汲んだ存在だ。


だ・が、キャラ立てと声優の選択に大・失・敗してしまっているところが痛い。この路線(「世捨て人」+「頑固な技術者」キャラ)が今後の宮崎作品でキャラクターとして固定化していくかどうかは分からない。ただ今回の試みは失敗に終わったという感が強い。


さて。


だいぶ長くなってしまったのでここら辺で切り上げる。あとは、宮崎駿が活劇とシンプルな勧善懲悪を捨ててしまったことへの是非とか、宮崎駿にとっての「母親的なもの」――『ポニョ』においてはグランマンマーレとトキばあさん――についてもちょっと考えてることがあるのだが、どうするかは未定。