【ネタバレ注意】チャーリーとチョコレート工場

ティム・バートンは、多くの作品で、フリークとしてしか生きられない人物の滑稽と悲惨を、共感と愛惜を以って描いてきた。 「シザーハンズ」(1990)の人造人間、 「エド・ウッド」(1994)の病的な映画監督、 「バットマン」シリーズでのトラウマAC男としてのブルース・ウェイン...。


そんなティム・バートンが新作でモデルとしたのは(ジョニー・デップの格好見れば一目瞭然)ずばり今や米国で最もフリークな存在、マイコー・ヂャクソンである。


伝説的な存在の大金持ちの世捨て人が、巨大な遊園地として建造された自邸に子供たちを招く。これがマイコーでなくて誰だというのでしょうか。いくらデップ本人が否定しても、皆そういう眼で見てるって。↓
google:チャーリーとチョコレート工場 マイケル・ジャクソン


(以下めっちゃネタバレなのでご注意。すいませんねぇ....)


ジョニー・デップ演じる伝説のチョコレート工場経営者ウィリー・ワンカは、原作(俺は映画の後で読んだ)では、あくまでピーター・パンやメリー・ポピンズのような子供達の冒険を導くガイドと狂言回し的な存在で、個性やリアルな存在感を備えたキャラクターとして描かれている訳ではない。


バートン監督はこのウィリー・ワンカに、厳格な父親に対するトラウマ*1から甘い物への執着が強迫観念的に暴走した成長史を秘めた主人公、という肉付けをほどこした(本来の主人公チャーリー少年は、“貧乏だけど、けなげで純真”という極めて類型的な描写しかされず、ほとんど影が薄い)。


何かが欠落した空疎な陽気さは明らかにエド・ウッドに通じ、自分の世界(チョコと工場)のことはペラペラ喋るが人間同士として普通に会話することができないコミュニケーション不全症候群という面はマイコーに通じる。


そして、チョコレート工場の中でバートンが徹底して描くのは、“アメリカ的なもの”への強烈な敵意と悪意だ。


醜悪で悪趣味な遊園地と化したチョコレート工場はディズニーランドのグロテスクなパロディ。工場で働く小人たち“ウンパ・ルンパ”は蛍光色の全身タイツを身にまとった中年のおっさん*2が演じ、CG合成で往年のMGM映画で有名なエスター・ウィリアムズの水中ミュージカル*3のパロディを魅(?)せる。


またチャーリー少年のライバル達の描写が凄い。トラッシュ・ホワイト。拝金主義者。偏執的な自己実現・上昇志向*4。原作では“いけすかない現代っ子を風刺”というレベルに留まっているところ、ティム・バートンが向ける悪意と敵意は、ほとんど“呪詛”に近い。


さらにこの映画の怖さは、これだけでは終わらない。バートン監督は最後に恐るべき罠を仕掛けていたのだ。


(ご注意:以下はモロにオチをバラしてます。未見のかたはお読みにならないよう。すいません....)




すなわち。





ソラリスアンドレイ・タルコフスキー版)」オチである。


ラストシーン。チャーリー一家の自宅に現れたウィリー・ウォンカは、チャーリーの家族と暖かな心の交流を持つ。はにかみながら挨拶をかわすウォンカとチャーリー一家。引いていくカメラ。家の全景が映り....さらにカメラが引くと、それを見下ろしながら作業に励むウンパ・ルンパ達の姿を俯瞰して、映画は終わる。降りしきる雪と見えたものはウンパ・ルンパ達がマシンで降らせていた粉砂糖だったのだ。


つまり、最後にチャーリーの家は工場の敷地の一部になっているのが明らかになる。ウィリー・ウォンカは“貧乏だけど純真で暖かい素敵な家族”を“ボクのセカイ”に取り込んでしまったのだ。


これは恐ろしい結末である。世界は裏返り、現実は幻想に、幻想は現実に取って代わる。マイコー・ヂャクソン的世界に呑み込まれる現実。


いってみれば、クドカンが悪ふざけゴミ映画にしてしまったしりあがり寿真夜中の弥次さん喜多さん」の、“リヤルのセカイが生きづらければ幻想の中のままを生きるので構わない”というテーマが、図らずもこの映画で実現していることになる。


それを空恐ろしいと感じるか、マイコー・ヂャクソン的なフリークへ注ぐティム・バートンの優しさとして受け止めるか。あなたはどちら?



分かってらっしゃる人々。

箱庭メリーゴゥランド
http://d.hatena.ne.jp/yuzui/20050922

おとなになるに従って、この物語がいかにこわかったかを思い出すだろう。そして正しいおとなになることは難しいのだと、思い知ればいい。


BEAT-MANgus
http://d.hatena.ne.jp/shidehira/20050922

子を持ったバートンが丸くなったなんて言ってるやつの目はフシアナだぜ。絶対彼は自分の子供とも分かり合えないという不安もしくは諦めを感じてるんだと思う。多分彼の平安はスタジオの中にしかない。だからホームをあんな形で描かざるをえなかったんだ。悲しい人だね。

そこが魅力なんだけど。


夢中遊行
http://d.hatena.ne.jp/miyamelancholic/20050921

この映画では一見、チャーリー少年は何にもしてないようにも見えますが、醜悪な自己主張も勘違いした行動もしない代わりに間違ったこともしなくて、大切なものが何かを最初から分かっているチャーリー少年は、ウォンカさん(=ティム・バートン=オタク代表)の考える、理想的な人間像なのかもしれませんね。


ちょこぶろ。
http://d.hatena.ne.jp/nicoco/20050921

ウォンカさんは“パパ”“ダディ”という言葉以前に、“parents”という言葉を言いよどむ訳ですよ。でも、その割にママは一切出てこないのは何で?ウォンカさんが家族の愛情を欲しているなら、そこにはママがいて然るべきだと思うんだけどなぁ。

↑これに対して内田樹教授は....。


おとぼけ映画批評
http://movie.tatsuru.com/archives/001211.html

本作で、父親に棄てられた子供であるウィリー・ウォンカはその遺棄された怨みを父親にではなく、「子どもたち」に向けて行使します。でも彼がほんとうに憎んでいるのは、最後に和解する父親ではなく、この物語に一度も出てこない母親の方なんです。彼女は「その存在についてひとことも言及されない」という欠性的な仕方でウィリーの報復を受け取っているのです。

う、うううむ。恐るべし、内田先生。

*1:アラン・パーカー監督「ケロッグ博士」(1994)(アンソニー・ホプキンスが怪演!)も彷彿とさせる

*2:いわゆる“ホントウに小さい人”らしい。

*3:女の人が大勢でシンクロして幾何学模様を描いて泳ぐヤツね。

*4:いかにも「成功をつかむ七つの習慣」の類の本を読んでそうな。