9/11 姜泰煥+中村明一@下北沢レディジェーン


どうしよっかなと思ったのだが、選挙の投票後に行ってきた。


http://www21.ocn.ne.jp/~bigtory/index.html
http://www.geocities.jp/go4block/KTH.html

  • 姜泰煥:alto sax
  • 中村明一:尺八
  1. 中村ソロ
  2. 姜ソロ
  3. デュオ
  4. 姜ソロ
  5. 中村ソロ:「鶴の巣籠」
  6. デュオ
  7. 短いアンコール:デュオ

ちょっと開演に遅刻してしまって、入店したときには既に中村氏のソロが始まってた。


いまや中村氏以外に殆ど奏者がいないという三尺一寸管(文字通り普通の尺八の2倍以上ある。ジャケ写参照)の響きを、2mくらいの真近で聴く*1。曲名がついていたのかもしれないが途中だったので不詳。日本人なら思わず居住まいを正してしまうような演奏だ。


虚無僧尺八の世界 薩慈


続いて姜氏のソロ。椅子を並べてその上に板を敷いて、いつものように胡坐をかいて演奏。いきなり音でけー。壁や椅子がビリビリと振動する。相変わらず、全く肩に力が入っていない、サックス吹きが良くやる“ハードなブロウ”的なリキみなど微塵も見せない演奏なのに、この音量はなんだ。こりゃ近所迷惑かもな、なんてふと思う。


続いてのデュオ演奏では、さすがの姜氏も若干音量を下げる。共演者の存在を尊重してということだろうか。だがノッてくるとついつい音量が上がって尺八をかき消しがちになるのは、なんともご愛嬌。


休憩挟んで再び姜氏のソロ。今年の新機軸として、サックスのベルを太腿に押し当ててミュートして超高音を立てる奏法が加わった。店全体を音響で包み込むような演奏。だが暴力的な感じはしない。淡々と吹く姜氏の姿勢のとおりの、平明な演奏。


中村氏は後半、難曲とされる「鶴の巣籠」をソロで。演奏前に少しMCと奏法のデモンストレーションがあった。


いわく、「姜さんの演奏を聴いたら、虚無僧尺八のこの曲に使われてるのと良く似た奏法があるのに気づきました。鳴き交わす親子の鶴の声を同時に吹いて表わすのですが、こんな感じで....」尺八による重音奏法。「こんな感じ」と言われても....真近で観てても何であんな音が出ているのか皆目検討がつきましぇん


特殊奏法云々を抜かしても、「鶴の巣籠」は美しい曲である。他に何が言えるだろうか。日本人なら聴いて泣くね、普通。


後半のデュオでは、中村氏は前半にも増してアグレッシヴな演奏。途中、中村氏は尺八から篠笛に持ち替えて演奏。


アンコールは、中村氏は普通のサイズの尺八で、日本ぽくない、なんかケルトのメロディっぽい旋律を吹いて、その一方で姜氏はいつものとおりの演奏で短めに*2


さて。


以前の日記では
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20050904#p2

2,3年前の姜&中村&yas-kaz@新宿PitInnでは、方向性の違いのほうが出てしまった印象があったので


てなことを書いたわけだが。今回、やはり改めてそれを再認識したというか、非常に興味深く、お二方の志向・方向性の相違を感じ取るとこになった。


(ちなみに以下の論考は、別にどちらがどうとか優劣やら何やらを論じようというのではない)


前回と今回の共演で俺が感じたのは、中村氏が他ジャンルの演奏家と共演するときのアプローチは基本的に「いつもより激しく」とか「禁じ手や禁忌とされてる事も敢えてやっちゃうぜ」という姿勢ではないか、ということだ。あと、「鶴の巣籠」の前説で明らかになったように、共演者との公約数や公倍数を探る、というアプローチというのもあると思う。


その方法論は、恐らく、ジャズ、フュージョンフリー・ジャズ演奏家との共演では、極めて有効な手段だと思う。中村氏は例えば、山下洋輔人脈のミュージシャン:山下洋輔坂田明渡辺香津美仙波清彦、一噌幸弘etcと共演すれば、目覚しい成果をあげられるに違いない。きっとそれは伝説のライヴや奇跡の名盤といったものになるだろう。


だが、姜泰煥氏とのデュオでは、残念ながら、そのような成果を齎したようには感じられなかった。


中村氏の演奏は、こよなく美しい。姜泰煥氏の演奏も素晴らしい。だがこの二つの演奏は、デュオにおいては交わり化学反応を起こすことなく、交叉したまま過ぎていったような印象を受けてしまった。


それはなぜか。恐らく、それはいわゆる“フリー・インプロヴィゼーション”と呼ばれる音楽の持つ特異性に原因があると思う。


フリー・インプロヴィゼーションの特異性とはすなわち、常に自分の演奏に対する“自己相対化”の姿勢を求められるところだ。演奏における自己相対化とは何かといえば、それは“自分の過去をいったんご破算にすること”だ。イディオムやクリシェをいったん放棄すること。“引き出しの多さ”に依拠しないこと。自己を相対化して不断に刷新・更新していく演奏。


間章は、これをジャズ/フリー・ジャズに当て嵌めて“ジャズの死”と呼んだ。


姜泰煥の演奏は、理解者の殆ど無い韓国の音楽シーンで独自に進化発展をとげてきたとは言え、基本的にはやはりベイリーから連なる“フリー・インプロヴィゼーション”の流れにある音楽だと思う。*3


そのような演奏に対して、公約数や公倍数的なアプローチで臨んでも、やはり中々上手くいかないのではないかな、なんて、異質な音楽が同時に演奏されてて交叉するわけではないデュオの演奏を聴きながら考えていたのであった。


姜泰煥氏のほうにも問題がなかったわけではない。
デュオ演奏では、2003年のミシェル・ドネダ&齋藤徹ツアーのゲストのとき↓
http://6617.teacup.com/springroad/bbs?OF=20&BD=7&CH=5
のような、大音量で台無しにするようなことはなく(笑)、音量を落として演奏していたわけだが、音量をおとしたからと言って、それが即、“小音量としての表現”になるわけではない。


“小音量で吹くこと”が“表現”に昇華するには、やはりそれが“音がデカかった以前の自分の音楽”を相対化した末に出てきたものでなければならないわけで、この日の姜氏の演奏は飽くまで共演者に合わせてヴォリューム下げた、というだけにとどまっていた。だからノッてくると音量が元に戻っちゃう、という“表現のブレ”が生じてしまうのだ。


とはいえ、姜泰煥氏は、非常にゆっくりとだがその歩みを決して止めたことの無いアーティストだ。


韓国初のフリー・ジャズ・トリオとしての姜泰煥トリオにおける“唾っぽい*4”演奏から、「最近演奏が大きく変わってきたように思える」と副島輝人氏に語ったという2000年ごろ*5を通って、“静かな湖面にカヤックで漕ぎ出すような”と形容された*6現在のスタイルまで、姜氏の音楽はゆったりとだが大きな変化を経てきている。


これで、次の大きな変化を迎えたときにどのように演奏が変わって行くのか、興味は尽きない。だから俺、来日するたんびに聴きに行ってるわけなのだ。


あ〜〜、こういう論考は苦手だ〜。まとまらね〜。長くて失礼!

*1:マイクで拾ってスピーカーからの出音に僅かにリヴァーヴかけてたけど、余計だった気がする。マイクで拾うのは姜さんの音量への対抗上しかたないとしても。

*2:姜氏は「ま、こんなもんじゃないすか」という時は最後「ブボッ」と一発吹いて終わることが多いが、このときもそうだった(笑)

*3:その意味で、姜氏の音楽を一概に“アジア的”と論じるのは、ちょっと危険なのではないかと思う、個人的には。特に、その演奏のルーツを安易に韓国伝統芸能に求めたり「大陸の息吹やアジアの風を感じる」云々と形容しちゃう“分かりやすさ”は、ちとヤバイのではないか、とか言ってみるテスト。

*4:津下さん日記の形容

*5:この頃、大友良英氏始め後に“音響派”と呼ばれるようになるミュージシャンとの交流が増えた記憶がある

*6:2003年12月、大谷資料館(http://www.oya909.co.jp/museum/index.html)でのライブ後の“Free Improvisation伝言板”におけるJazz&Now 寺内氏の投稿