ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー 展@メゾンエルメス


終わり間際になって、俄かにマイミク周辺で面白かったという感想が続出したので。確かに非常に楽しめた。


ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー 展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/BA51
http://s03.megalodon.jp/2009-0520-1457-00/www.tokyoartbeat.com/event/2009/BA51

(引用)
「The Forty-Part Motet 40 声のモテット」(2001 年制作)は、40のパートから成る楽曲のサウンドインスタレーションです。会場に並べられた40個のスピーカーひとつひとつから、各パートを受け持つ歌い手の声が発せられ、観客は、それぞれの歌い手の間を自由に歩き回るような体験ができます。楽曲の進行とともに音は融合し、やがて空間に反響するひとつの歌声となるとき、我々は目の前のスピーカーが音を発しているという単純な視覚的事実から解放されていきます。アメリカやヨーロッパをはじめとする、どの会場でも、音がその場所の特性を投影し共鳴させる本作品、今回、日本では初めての公開となります。


ブログ検索
http://blogsearch.google.co.jp/blogsearch?q=ジャネット・カーディフ&um=1&ie=UTF-8&hl=ja&as_drrb=q&as_qdr=m
http://akihitok.typepad.jp/blog/2009/04/40-12e1.html
http://blog.ottava.jp/ottava_moderato/2009/05/4017-10a9.html
http://blog.livedoor.jp/shibat9/archives/51553291.html
http://blog.livedoor.jp/shibat9/archives/51553752.html
↑リンク先に「40声のモテット」の楽譜(PDFファイル)あり


なかなか卓見だとおもったのが↓こちらのかたの御意見。


ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー展 -
http://shota.txt-nifty.com/blog/2009/05/post-b691.html

(引用)
観者がスピーカーの間を歩き回ることで観者の自由に音の構成を変えて聞くことができるというのは、自由度の面白さがあるようであっても演奏者との関係を断ち切ることで初めて得られている自由であり音楽の中に入り込めているわけではないのだ。
モテットは良い曲だし周囲の多数の音源からの音につつまれているのは心地よいが、この『40 声のモテット』が崩した関係性は演奏者と聴衆の関係ではなくステレオ装置と聴取者の関係にすぎない。
(中略)
スピーカーの間を至近距離で歩きまわる聴取者と歌手の間だけでなく歌手相互間にも実は断絶があり、その歌声をまとめて音楽に聞かせているのは歌手ではなく電気の力により近接したスピーカーから同期をとって出力する処置であり、レコードの作成時にミキサーで行うことを目の前で音にしてから行っている結果であることを認識させられた。


凄く面白い。確かに御指摘の通り。


でも、そういう分析は、「美術館という“制度”を露わにすることを意図したコンセプチュアル・アート」とか「演者と観客の関係性を問う実験音楽/演劇」には当てはまるものかもしれないけど、今回のこの作品にはちょっと違うかな、と思ってみたりして(外野から勝手な茶々をいれてしまって申し訳ありません)。


さて。


観ていて面白かったのが、音楽が流れている間は観客が各々自由にスピーカー間を歩き回って各スピーカーから流れる歌声を聞くことが出来るのだが、その様子を眺めていると、まるで観客が太田省吾の無言劇とか、モダンバレエやコンテンポラリーダンスのダンサーとか、お能の演者みたいに動いているみたいで非常に面白かった。


スピーカーの間をゆっくりと巡回する男性、全スピーカーの中央にあたる地点で静止して眼をつぶって聞き入る女性、あるスピーカーひとつに首を傾けて一心に聞く白人女性、中央部のベンチで背を真直ぐにして座って聴いている老紳士。俺は、タルコフスキーの映画『ノスタルジア』での階段のシーンを思い出した。


それを観ていてふと「あぁ、我々は今、“死者”としてここにいる」ということを思った。


http://dic.mobatch.net/detail/モテット

モテット(motet【英・仏】、Motette【独】、mottetto【伊】、motetus【羅】)は声楽曲のジャンルのひとつ。一般的に、中世末期からルネサンス音楽にかけて成立・発達した、ミサ曲以外のポリフォニーによる宗教曲を指す。


宗教曲が始まるとともに現われ、歌手の間を静かに動き回りながら歌に耳を傾ける者という意味で我々は歌い手たちからみれば“死者”である。また、黒い墓石を思わせるスピーカーの中に囚われて歌い続ける歌手達は、我々からみれば墓場の中から歌いかける者という意味で“死者”である。


ここでは、「彼らにとって死者である我々」と「我々にとって死者である彼ら」が時と空間を隔てて重なり合っている。


そして、お能にせよダンスにせよ演劇にせよ、演者が死者を演ずる作品は古今東西枚挙に暇が無いが、「観客がいつのまにか死者を演じることになってしまう」作品というのは他に類を見ない。


たまには死者になってみるのもいいもんだ(笑)なんて思った次第。