【回想】構造とかの時代(終)――バカ学生(俺)はなぜ振り回されたのか
えーと、有耶無耶に尻切れトンボにするつもりだったのですが(笑)ちょっと最後に一言いっとくか、という感じで。
前々回・前回の日記が妙にウケがよかったのはありがたいことではあるのだが、「もう俺にニューアカ/ポストモダンの話題を振らないでくれ」というつもりで書いたのに、ここ数日、会う人のほとんどがその話題というのはどういうことなのか。
振られる話題はだいたい以下の3種類に分けられる:
- 分かっててイヤがらせで振ってくる
- 親切に“解説”してくれる
- DTPの質問・相談を振られる
■分かっててイヤがらせで振ってくる
「(ニヤニヤしながら)矢野さん、それは《強度》、アンタンシテっつうヤツですね?」
うるせーよ。
もうニューアカ/ポストモダンを振られてもキョドったりしません〜。お生憎様〜。
「も、もうキョドったりしないんだからねっ!(////)」(ツンデレ風に)
「いいか、お前ら振るなよ!絶対振るなよ!」 (上島竜平風に)
■親切に“解説”してくれる
なんか、俺がその手の思想哲学をキチンと学びたいと思ってるというような妙に誤解をうけている場合があった。いや、その善意は非常にありがたいとは思うんですけどね、すみませんが俺、全然そのつもりないですから。今の俺にとってニューアカ/ポストモダン以降のああいうジャーゴンやレトリックに遭遇する機会って、北里義之さんと佐々木敦さんの文章ぐらいしか無いんで。申し訳ありません…ってなんで謝んなきゃなんないんだ。
■DTPの質問・相談を振られる
俺があんな過酷な業界から足を洗ったのはもう20世紀末のころなんで。俺の知識や経験は既に過去の遺物、なんの役にも立ちません。だから俺にイラレやフォトショの話題から、ましてや就活の相談なんぞ振られてもムダです。あしからず。
ということで、今週のサザエさんは:
- またキョージュが出た!
- サブカルへの浸透と拡散
- 『構造と力』を片手にナンパ、は実在したのか?
の3本です。
参考サイト:80年代サブカルチャー人名辞典
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Keyboard/1496/80persona.html
■またキョージュが出た!
80年代中盤以降、若者の間にニューアカ/ポストモダンが(その上っ面とかジャーゴンだけ、にせよ)浸透したキーパーソンとして、坂本龍一の存在はさけて通れないところだろう。
これまた“教授”はす〜ぐあの手の連中とツルみたがるんだよ。
坂本龍一氏といえば、
70年代:活動家ミーハー
↓
80年代:ニューアカ
↓
21世紀:ロハス(笑)
という、常に時代のトレンドを先取りした分かりやすい人生を歩んでいらしたかたなわけだが(最近は、「ロッカショ 2万4000年後の地球へのメッセージ」なんて本書いてこんな騒ぎ起こしてますね http://www.engy-sqr.com/media_open/others/rokkasho_kougi080303.htm)
教授が発言したり対談したりしてるだけで、世の中を斜に構えて見て自分では世間を見切ったようなつもりになってる癖にその実西武セゾングループと糸井重里の手の平の上で踊らされてるようなバカ(俺)なんかはもう、イチコロなわけですよ。無理して村上龍との対談『EV Cafe』読んじゃったりしてさ。「教授の今度の新譜って『Neo Geo』っていうんだって」とか言ったりして。うわ〜、思い出しただけで顔から火が出そうだ!死ねよ当時の俺。
それにしても、時代のトレンドと潮目を読むためにも、今後も坂本教授の動向には目が離せない(笑)
■サブカルへの浸透と拡散
リアルタイムで接していない方には実感が湧かないかもしれないが、『構造と力』以降のニューアカ/ポストモダンの広がる速さというのは凄いもんで、図書館とか大学生協の書店とかを1年ぐらいで席巻したような印象がある。老舗の『現代思想』『ユリイカ』『遊』等の哲学・思想誌とか『エピステーメー叢書』なんかが書棚の目立つ所に置かれたり平積みされたりして。ちょっとしてから浅田が主宰した『GS たのしい知識』なんて雑誌が出たりして。たのしい知識、という用語のセンスがいかにも80年代的でイタくも恥ずかしい。
でもさぁ。
そういう本物(?)の哲学系の本だったらそれも当然だとも思えるのだが、アレだよ、『Fool's Mate』とか『Rock Magazine』とか『宝島』とかでニューアカ/ポストモダン系の用語やレトリックを援用してたヤツらは嘘だろう、いや流石に嘘とまではいわないけど、相当見栄張って背伸びしてたのではないか?と思わざるを得ない。『宝島』に書いてたいとうせいこうは分かってるクチだったろうし『Fool's Mate』の編集長、故・北村昌士(合掌)も分かってたと思うが、他の執筆者ははたしてどうだったのだろうか。
一ついえるのは、俺を含む読者の側にはほとんど分かってるヤツはいなかったのではないかと思われる、ということだ。
だってさぁ。
ツバキハウスのロンドン・ナイトで髪の襟足の片側だけ刈り上げて真っ黒い服着てラリッて踊ってるお兄ちゃん(俺ではありません)とか、ランドセルしょって小学生のコスプレして『有頂天』のライブに来てるナゴムギャル(ブス)なんかが、『悲しき熱帯』とか『性の歴史』とか読んでるわけがねぇ。
あ、それでいきなり思い出した。
当時、リチャード・ドーキンスの有名な『利己的な遺伝子』の邦訳が出たんだけど、それがさぁ、よりによって『生物=生存機械論』ってトンデモないタイトルで出てさぁ。いや、タイトルとしてはそんなにハズしてないんだよ?でもね、《生存機械》ですよ。ドゥルーズ=ガタリの《戦争機械》っぽいじゃん。《生物・生存・機械》ですよ。ニューアカの本ってなぜか、落語の三題噺みたいに単語3つの書名ってのが多いんだよ。『フロイト、ラカン、フーコー』とか。『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』とか。『猿と女とサイボーグ』とか。だからてっきりニューアカ/ポストモダンの本だと思って読んだらこれがバリバリ理系の科学啓蒙書でさぁ。進化論の話でやんの。すっかり騙されたよ(←誰に?)。いや本の内容はめっぽう面白かったから結果オーライでいいんだけどね。
(ちなみにそのころ出た『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本も一般向けの科学・数学の啓蒙書らしかったんだが、こっちはチンプンカンプンで何が何やらサッパリ分からなかった)
■『構造と力』を片手にナンパ、は実在したのか?
浅田彰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0&diff=15291537&oldid=14917237
浅田彰現象の絶頂期には、『構造と力』を片手にナンパするのが流行し、浅田も旧世代からは軽薄な新人類の代表とされたが、ドゥルーズ/ガタリ、デリダなどフランスのポストモダニズムを日本に紹介した功績は大きい。
ホントかよ。
まぁバカ(俺)の周辺にそんなモン持ってナンパにいそしむ奇特なヤツなど一人もいなかったから、真偽の確かめようもないのだが。どうなんだ。それで“打率”上がったのか?なんかリアリティないし、到底信じがたい話だ。
これは飽くまで憶測で根拠ゼロだが、70年代安保の頃の若者の世相風俗を形容する文句として「右手に朝ジャ、左手にマガジン」というのがあったけど、それと対称させるためにどこかで後付けで捏造されたんではないだろうか。「70年代は右手に朝ジャ・左手にマガジンと言われたものだが80年代は新人類が『構造と力』を片手にナンパ」なんて、いかにも当時朝日ジャーナルで書かれそうな感じ。
とはいえ。
当時の時代の空気として、「ここらへんはなんか押さえとかなきゃ」とか「ヒトコト言っておかなきゃ」という雰囲気があったのは事実だと感じる。何しろバカ学生だった俺ら周辺にもその影響はこんだけ及んでいたわけなのだから。
だから「『構造と力』を片手にナンパ」というのは、捏造かほとんど実在しないできごとだったかも知れないが、広義に捉えて「ニューアカ/ポストモダン的なジャーゴンやレトリックが、80年代の若者たちの間で、背伸びをしたり見栄を張ったり異性の前で格好をつけたりする際のキーワードとしてよく使われた。そのシンボルが浅田彰『構造と力』『逃走論』」という風に解釈すれば、そのようなことはあったのだろうな、と思われる。
時代状況を考慮してみれば、やはり広義の強制はあったと断ぜざるを得ないわけですよ!wwwwwwww
さて。
それにしても、何で俺、分かりもしないニューアカ/ポストモダンについて、勢い任せで(ちょっとはググって調べたけどさ)こんだけ長文が、しかも3回にも分けて書けるのだろう。考えてみたら不思議である。自分でもよく憶えてたなと思う。つうか、はっきり言って異常なことだ。アタマおかしいんじゃないか俺。
で、こうして回顧して我が身を振り返ってみて思ったのは、ある時代の動向やトレンドやパラダイムというものが自尊心や自己顕示欲や虚栄心に関係すると、ヒトは想像以上にそれに呪縛される、また、そのトレンドやパラダイムに対する疎外感や挫折を伴うとその呪縛は更に強まる、ということだった。
そしてこのような「呪縛に振り回される」ということは、「俺とニューアカ/ポストモダン」の例だけでなく、文芸・アート・カルチャーの様々なジャンルで、様々なレベルで、思った以上に沢山の人の身の上に起きていることなのではないかと思う。
例えば。
「ケージ・ショック」以降のいわゆる現代音楽に疎外感を抱いた結果、HPやブログで「ゲンダイオンガク」とカタカナ表記すれば「象牙の塔のような楽壇の中に籠もって聴衆を無視した難解な作品を書いては自己満足しているインテリに一矢報いてやった」ような気になっている吉松隆の腰巾着気取りのクラオタオヤジとか。
「フリージャズを聴いているジャズ評論家は良心的であり、業界よりと見なされる評論家はだめだという認識がある」というような「いつの時代だよ(笑)」「それドコのパラレル・ワールド?」という世界観のセカイに棲んでいらっしゃるご老体とか。
俺も彼らを笑えない。日記を3回連載(笑)して、俺も彼らと同種のニンゲン(というかそれ以下)という認識があるし、誰にでもコンプレックスやルサンチマンというものはあるだろう。
だって高柳昌行さんの『汎音楽論集』に載ってる当て擦りや「反論という名の罵詈雑言」なんて、ヒドいもんだからなぁ。いかにも当時の「突き上げや吊るし上げやコトバの暴力がラディカルだと思えた無邪気な時代」の文章でさ。俺は高柳さんの音楽を深く愛して尊敬しているけど、読んでて辟易してウンザリしてくるのもまた事実。こんなんが毎月『スイングジャーナル』に載ってたりちょっと批判的なこと書いたら長文の粘着な反論が返ってくるんじゃあ、そりゃたまらんわな、そのせいでフリー嫌いになるかもな、とは思う。
だが。
こういうのを読んでつくづく思うのは:
- コンプレックスやルサンチマンを、最終的に笑い飛ばせないのは、不幸(または悲喜劇)
- いつまでも抱えて生きるのは、不毛
- そのコンプレックスやルサンチマンを、今生きて活動している人におっかぶせるのは、不当
- それで「とうとう思い知らせてやった」とか考えて悦に入ってるのは、不様(または滑稽)
という四つの“不”(4つめちょっと読みが違うけどね)だ。
なんというかなぁ。ヒトの“業”というものは、つくづく厄介なものなんだなあ、と思う。
終わり。