【番外編】構造とかの時代――若者にレクチャーする羽目に。


「…ですから矢野さん、なんでポストモダンの哲学の物言いってのは、なんであんなにワケ分からないんすかね?」


「だ・か・ら、その手のネタを振るなっつってんじゃん。つうか、こんだけ酒入ってる状況だよ?酒入っちゃうと俺『聞こえない・憶えてない・ロレツ回らない』つう三重苦なのにさ。デテリトリアディジオンとか言えるわけないっしょ(←すでに言えてない)。分かるやつに聞けばいいじゃん」


「いやでもね、分かるヤツには分からないヤツのどこが分からないかは分からないじゃないですか。分からないヤツがどう分からないかが分かるヤツが分からないヤツがどう分からないかを分かるように説明すべきだと思うんですよ(←すでにワケ分からなくなっている)」


「いやぁ言ってる事分からないでもないけどさぁ、あれだよ?メンドくさいから専門用語とか使わないよ?」


つうことで、居酒屋の紙のランチョンマットの裏に図を書いて説明する羽目
になった。


まず、たとえ話から始めてみる。


俺が八王子や立川に用事があって、友人と中央線に乗っているとしよう。そこで車掌のアナウンスが流れるとする(最近は自動テープも多くなったけど)。

車掌中川家の弟の声でお読みください)「毎度ご乗車 ありがとうございます。この電車は中央線快速高尾行きです。次はナカノ、中野に停車いたします。中野の次はオギクボに停車いたします…」
「あぁ、今日、土曜日だったっけ」
「お、ラッキー♪」

ここに、哲学・思想に関する、本質的な問題が内在しているのである。いやホントだって。


この車掌のアナウンスを文字通りに受け取ると、車掌が言っているのはこういうことである。


だがご存知のとおり、中央線の駅がこんな風に並んでるわけがない。中央線の駅の並びは、正しくはこうなっている。


だがこれだけでは、車掌のアナウンスを聞いて「ラッキー♪」というリアクションが出る理由が分からない。それは、以下の理由による。


つまり「中野の次は、オギクボに停車」→「お、ラッキー♪」というリアクションの背景には:

  • 中央線快速は土曜と休日は高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪は通過する
  • 友人は、今日が土曜日だということを忘れていた
  • なので予想していたより早く立川・八王子に着けそうだ
  • ラッキー♪

という事情が「重層的に畳み込まれている」のである。


思想・哲学のレトリックやジャーゴン(専門用語)も、これに相通じるところがある。


すなわち、思想・哲学のレトリックやジャーゴンは、言葉と思想の快速・急行電車だといえる。


以前の日記で俺は

仮に、当時の大学生で『構造と力』を通読して理解できた者を“構造とチカラ派”と名づけ、サッパリ分からなかった者を“構造とか派”と名づけて、分類したとする。俺は間違いなく“構造とか派”の側である。というか当時の大学生の95%くらいがそうだったのではないか。俺の周辺で“構造とチカラ派”の側に入れそうなヤツなど、皆無だったように思われる。

と書いたが、車掌のアナウンス「中野の次は、オギクボに停車」を聞いて「お、ラッキー♪」と言える人間が“構造とチカラ派”、


こういう図を思い浮かべるボンクラが“構造とか派”だと言える。


例えば。

ジャック・デリダ

現前の領域における存在の意味の限定としての西洋形而上学は、ある言語学的な形式の支配として生み出される。この支配の根源を問うことは(中略)私達の歴史を構成するものについて、超越論性そのものを生み出したものについて問うことである。 (『グラマトロジーについて』)

ということを書くとき、このとき要はデリダは「中野の次は三鷹に停車」と言っているのである。


これを読んで「やっべー!!オレ、特快に乗っちゃったよ!」と言えるのが浅田彰東浩紀


こういう図を思い浮かべるボケナスが俺。


では、思想・哲学系の文章はなぜ、そんなに「急ぐ」のか。


それは、哲学には本質的に「なるべく早くセカイの外側=終点にたどり着きたい」という運動を内に秘めているからだ。


哲学とはぶっちゃけていえば、世界の

  • あらまし
  • なりたち
  • いきさつ
  • からくり etc...

を叙述するための学問なのだが、世界のそのようなことがらを語るには、世界の「周縁・外縁・輪郭・彼岸」に最速でたどり着く言葉やレトリックを使わなければならない。


これを東浩紀は『存在論的・郵便的』で次のように図示してみせた。

――――――――― メタレヴェル(終点に辿り着きたい気持)


↓(規定)


―○―○―○―○―○―  オブジェクトレヴェル(鉄道=世界)
 ↑
 駅=事象


例えば、80年代後半〜90年代初頭の日本という国はアメリカの核の傘レーガノミクスプラザ合意によるドル安のもと国際社会の中では鬼っ子とでもいうべき存在として第三世界を直接・間接に搾取しつつ繁栄を極めたわけだが、その繁栄は極めて危ういバランスの上に成り立つかりそめのものに過ぎず、その繁栄はバブル崩壊とともに一気に失墜するに至ったのは周知のとおりだが、これはこのように説明することができる。


若いサラリーマンが三鷹にある会社の独身寮に暮らして、快速・特快を使ってスイスイ通勤し、家賃も安いのでブイブイ遊び暮らしていたとする。その快適な生活は、つねに高円寺や阿佐ヶ谷の住民の犠牲の上になりたっているもので、なおかつ結婚するまでという期限付きのものだった。いざ結婚して西荻窪下車バスで20分の高井戸の賃貸アパートに暮らすようになれば、各停待ちの行列に並んだり常に終バスを気にしながら飲むとかしなければならなくなるのである。


これを仮に「中央線モデル」もしくは「中央線快速問題」と命名するとすれば、この「中央線快速問題」を、

  • 全地球規模のグローバル経済 とか
  • 数百年のスパンの歴史の流れ とか
  • 大富豪から貧民層に至る社会の階層 とか
  • 形而上から形而下に至る言語の構造 とか

に引き伸ばして当てはめて考えてみるのが、ヨーロッパの哲学・思想というものなのである。


ここらへんの学者には

なんてのがいるが、これは

みたいなもんである。


すなわち、ある路線が抱えてる矛盾や問題点を解消するために登場したのだが、その一方で新たな矛盾を抱え込むことになってしまったとか、初めは違っていたが年を経るにしたがって同じような路線になってきた、とか。


いわゆる「ニューアカポストモダン」思想の解説書というのは、多くは「中央線快速は、東京始発の場合は中野に停まるが新宿始発の場合は中野には停まらない」とか「中央特快と青梅特快の違いは国分寺駅に停車するかどうかだけだが、後にどちらも国分寺に停まるようになったので実質的には違いはなくなった」とか、そういうことが書かれているのである。


で、なぜ、哲学・思想のレトリックは晦渋・難解になるのか。


それは、ぶっちゃけ「飛ばす駅」が増えるからだ。


フランスの社会思想は

実存主義構造主義ポスト構造主義


という流れで発展したとされるが、これは

快速→急行→特急


という序列に対応する。「飛ばす駅」が増えれば増えるほど、抽象度が増して内容は難解になっていく傾向がある。


例えば、小田急線で箱根や小田原に行く観光客が、各駅停車や準急に乗るとは考えられないだろう。途中で祖師ヶ谷大蔵とか鶴川なんかに止まってられない、まだるっこしくて。まずロマンスカーだろ常識的に考えて。最低でも最初の停車駅は向ヶ丘遊園だろ、みたいな。


あと、初台のオペラシティホールやICCのギャラリーでのコンサート/イベントから京王多摩センターパルテノン多摩のコンサートまでハシゴしなけりゃならないときには、まず特急京王八王子行きがデフォルトだろう。各停や快速なんか使ってらんない、ましてや桜上水止まりなんて中途半端な長さの電車など到底許せない。代田橋?ハァ?どこそれ。あぁ笹塚の先にある廃駅みたいなの(笑)、てなもんである。


(地元の人、ごめんね……)


だから、特にポスト構造主義の思想を読むときには、何が・いくつ・どのように飛ばされていることに気をつけて読む必要に迫られる。これがこの手の文章を読むときの面倒なところである。


また、冒頭の「中野の次は荻窪に停車」という車掌のアナウンスは、実はその後に「途中駅、高円寺・阿佐ヶ谷には停車いたしませんのでご注意ください」という説明が続くのだが、ヨーロッパのインテリは勿体ぶってて意地悪なので、そういう親切な説明は一切しないのがけしからんところなのである。


さて。


先ほど名前の出た東浩紀の『存在論的・郵便的』だが、本の帯に浅田彰の推薦文が載っている。

東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(…)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである


おいおい。理解する前に過去のものになっちまったよ。どうすんだよ。


実際『存在論的・郵便的』を読んでみて、やっぱ分かんなかった(特に後半3・4章)わけだが(笑)。この「お手上げな感じ」は、例えば浅田彰を中央線だとしたら、東浩紀東急線の城南地区(大田区・目黒区・渋谷区・品川区)および川崎方面に似ている。


東急線のあの辺りといえば、

  • 渋谷に出るつもりでいたのに気づくと中目黒に出ている とか
  • 無人の回送電車がなぜか多摩川の鉄橋の上に停まってて怖い とか
  • 武蔵小杉の駅でさんざんグルグル歩き回ったあげく、けっきょく乗り換え路線を間違える とか
  • どの駅もしょっちゅう工事してて降りる度に出口が変わってるので道に迷う とか

俺にとってはまさに「クラインの壷」であって、「お手上げ感」「苦手意識」が極めて強いのであった。


さて。


かようにワケ分かってない俺なわけだが、20年以上、かじっちゃ投げ出し・読みかけちゃ挫折しを繰り返してきた結果、「無理をしている・背伸びしてる・地に足が着いていない」人や文章には目が利くようになってきた。


例えば。


人文科学系の大学生・大学院生のブログなんかで、グローバリゼーションやブッシュ政権の批判や東浩紀宮台真司etcの悪口や著名ブロガー同士の揉め事については無闇と勇ましく何千字ものエントリーをアップするのに、自分の身辺雑記や日常生活の日記になると、とたんに愚痴と弱音とバイト先の悪口ばっかりで、コイツ自分の人生よっぽど退屈でつまんねぇんだろうな、その数千字のエントリーに使う労力と時間を卒論や院試やレポートの勉強に費やせばいいじゃねぇか、と要らぬ心配をしてしまうようなブログをたまに見かけることがある。


そういうお兄さんのブログは、俺の目からはこう見える。


オマエ上京してから井の頭線の急行しか乗ったことねぇだろ!西永福がどこにあるか言ってみろ!とドヤシつけてみたくなってしまうのである。


つまり。


思想・哲学に取り組む際の、とっつきにくさ・困難・難解さというものは、鉄道の路線を深く理解することの困難に通じる。


哲学の徒を、仮に「哲ちゃん」と命名すると、哲ちゃんは、思考と言葉と論理における「鉄ちゃん」でなければならない。

        • -

「…というわけなんだよ」


「………(静かな怒りの目)」


(あ、ヤバい、怒らせちゃったかな)


「オチはダジャレっすか」


「あ、ご、ごめんよう。もうしないよう」