【回想】構造とかの時代2――バカ学生(俺)はニューアカの何が分からなかったか

前回の日記の続き:
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20080301

では、なぜそのように「ポストモダンニューアカ」は当時の若者にとって難解で分かりづらいものだったのか。にも関わらず、なぜ当時のトンガリキッズ(←死語)の間でそれほど「ポストモダンニューアカ」が席捲したのか。

ということで、80年代半ばにバカ大学生だった俺がいかに「ポストモダンニューアカ」に振り回されたかというお話です。フザケてたりほとんど言いがかりだったり八つ当たりだったりする可能性がありますが、マジメにポストモダン思想に取り組んできたかたを愚弄する意図は毛頭ありませんのでその点、平にご容赦を。


それにしても…下書きを読み返したら自分のあまりのDQNっぷりに嫌気がさしてきたが、もういいや。無知をさらすならトコトンまで。



当時の俺にとっての「ポストモダンニューアカ」が分かりづらかった理由だが、以下の3点に集約されるような気がする。

  1. 用語や名称に一種独特の馴染みづらさがある
  2. 一般的な単語が違う意味とニュアンスで使われることがある
  3. レイアウトが戸田ツトム

1. 用語や名称の一種独特の馴染みづらさ

ポストモダンニューアカで使われる主なカタカナ用語(五十音順):

アーレント アポリア アルチュセール ヴィリリオ エクリチュール ガタリ クリステヴァ サイード ジジェク シミュラークルソーカル ソシュール ディシプリン ディスクール ディセミナシオン ディフェランス デコンストリュクシオン デリダ ドゥルーズ ネグリ ハーバーマス パノプティコン バルト パロール ビオポリティクス フーコー フッサール ブリコラージュ ボードリヤール ミメーシス ミル・プラトー ラカン ラクー・ラバルト リオタール リゾーム レヴィ・ストロース

(正しくはポストモダンニューアカ用語でないものも含まれています。それくらい無理解だってことで)


まず当時は、どれが人名でどれがジャーゴンなのかすら、よく分からなかった。いや笑い事じゃなくてさ。ホントだって。ドゥルーズリゾーム、人名はどっち?てなもんで。


ニューアカポストモダンの学者って、なぜか変わった名前の人が多いんだよな。


バカ学生(俺)の脳内の「フランスのインテリ」といえば、

  • 「ガストン・モリエール」とか「ジェラール・フィリップ」(こういう名前の美男俳優がいたっけ)とか、そういういかにもフランスっぽい名前で
  • ハンチングかベレー帽を小粋に被って
  • 黒のタートルネックツイードのジャケット(なぜか肘に茶色い革の肘当てがついている)着て
  • パイプくゆらせて
  • 「ぼんそわ」とか言う

というイメージだったのだ。


(考えてみたら筑紫哲也五木寛之の服装ってそういう「海外のインテリ」そのまんまだな。てことはアレは「コスプレ」なのか?wwwww)


それがなんだよ。


「がたり」とか「どぅるーず」とか「でりだ」とかって。


どいつもこいつも擬音語・擬態語みたいな名前しやがって。


Levi Strauss なんて、ジーパンと同じ名前のくせに、「リーヴァイ・ストラウス」じゃなく「レヴィ・ストロース」と読んだ途端になんとなく「パリのエスプリ」が漂うような気がするのがまたムカツク。


ドゥルーズのフルネームなんか当初は「ドゥルーズ=ガタリ」だと思ってたし、(映画監督だけど)ストローブ=ユイレはそういう名前の1人の監督かと思ってた。


あと、向こうの哲学って、ヘルメスとかイオロスとかアンティゴネーとかウロボロスとか、ギリシア神話とか旧約聖書の登場人物や生物を援用するんで、「シニフィエシニフィアン」というのはそういうギリシア神話とか旧約聖書の登場人物のペアかと思ってた。ほらあんじゃん、ダフニスとクロエとか。トリスタンとイゾルデとか。サムソンとデリラとか。 ヘドバとダビデとか。

2. 一般的な単語が違う意味とニュアンスで使われることがある

カタカナ言葉が分かりづらいのは新しく輸入された用語や概念なわけだから当然なのだが、さらに紛らわしくややこしいのは、漢字の熟語で世間一般では普通に使われている単語が、「ポストモダンニューアカ」では「ちょっと違う」意味で使われるらしいことだった。例えば、文脈とか。差異とか。強度とか。監獄とか。帝国とか。贈与とか。


上記の単語が「ポストモダンニューアカ」で「ちょっと違う」意味で使われる場合、決まってこういうカッコ→《》にくくられるのである。《文脈》とか。《差異》とか。《強度》とか。《監獄》とか。《帝国》とか。《贈与》とか。


こういう風にカッコ付きになっていると、なんかどうも、「普通の意味とは違う」ニュアンスで使われてるらしいのである。


んで、困っちゃうのは、どうやら「普通とは違う」意味で使われているらしいそれらカッコ付きの単語が「どうちがう」のかが、さっぱり分からないというか、どこにも書かれてなかったりすることにあるのであった。


どうも、それらの単語にこういう→《》がついている場合、そういう文章の読者なら分かってるのは「自明」のはず、とされてしまうようなのである。せいぜい、それを使ってる学者の名前がマクラコトバのように上についてるくらいで「こと足れり」というか説明責任は果たしたとされてしまうようなのである。「デリダの《脱構築》」とか「ドゥルーズ=ガタリの《脱属領化》」とか。


こういう「この文章読んでんなら当然こんなジャーゴン分かってるよな」という前提が勝手に設定されている感じが、いわゆる「ポストモダンニューアカ」系文章に接したときに俺が強烈に感じる「置いてきぼりにされるような疎外感」の源泉なのであった。

3. レイアウトが戸田ツトム

ポストモダンニューアカ」系の文章が載るような雑誌や書籍のブックデザイン担当といえば、

の3氏が三巨頭だった。いずれも強烈な個性とオリジナリティを持った優れたデザイナーだと思うが、中でも一番ラディカルだったのは戸田ツトム先生だった。出版社でいうと、青土社とか。工作舎とか。NTT出版とか。


いや、戸田先生にはDTP(Desktop Publishing)黎明期にはずいぶん薫陶を受けたし(PhotoshopとかQuark Xpressとかイメージセッタの講座とかあったなぁ)、とにかくデザイン的には綺麗でカッコいいし、尊敬もしているんだけどね。


ぶっちゃけあまりにラディカルすぎて読みづらいんすよ(泣)。


戸田先生がノッて仕事をしちゃった場合、もう、どういう順番で読んだらいいかわかんなかったりしてね(笑)。見開きページのど真ん中にでっかく鉱物の顕微鏡写真とか熱帯雨林の写真とか地層の写真とかがレイアウトされてて、周辺にテキストが1段落ずつブロックになって散りばめられてたりしてさ。


そんなこんなで、「ポストモダンニューアカ」系文章に関しては、その内容を検証する以前に、とにかく入り口・とば口以前の段階で挫折してしまったというのが俺の実情だったわけだ。


(続くかもしれないしこのまま終わるかも。当時を思い出しながら文章打ってたら悪酔いしてきた…)