【回想】構造とかの時代――私のニューアカ・アレルギー


最近、2ちゃんねるの↓このスレから派生した「ゆるふわ愛されナントカ」というのがネタ/テンプレとして一部で流行ってるらしい。


ちょwwwwwスイーツ(笑)雑誌の特集に吹いた
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-310.html


「ゆるふわ愛され〜」のまとめ - klovlr
http://klov.tumblr.com/post/26879550
「ゆるふわ愛されなんとか」テンプレートβ版 - 思索の海
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080220/1203497213


例えばこういうの:


「ゆるふわ愛されポストモダン - No Hedge!
http://d.hatena.ne.jp/klov/20080218/1203339922
「ゆるふわ愛され現代哲学」 - 死に舞
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20080219/p2


ワロタ。くだらね〜(笑)


……


ゴメン、ちょっと見栄張りました。半分以上、意味が分かりません。


何を隠そう、俺は実は「ニューアカ」「ポストモダン思想」の類がまったく苦手なのだ(これ、シリーズ化しようか。『何を隠そうシリーズ』つって)。


先日、杉本拓氏が mixi 日記でポストモダンの文章や用語が分からない、ということを(後で同人誌『三太』に載るのかな)書いていたので、俺もこの際、「分からないんで俺にその手の話題を振らないでください」とカミングアウトしてしまおうか、と考えた次第。


ニュー・アカデミズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニュー・アカデミズム
ポストモダン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポストモダン


俺、たまに、なんか勝手な誤解を受けてて、そういうのが「分かる」人間だと思われてることがあるのが困りものなのである。例えば、ライブの後の楽屋とか打ち上げで、俺が音楽その他について(酒の勢いも手伝って)床屋政談的に好き勝手にしゃべっていると、こんな風に声を掛けられることがある:

「〜〜〜だと、思うわけなんですよ」
「矢野さん、それ、ディスクールってやつですよね?」
「へ?でぃすくーる?」
「ほら、《言説》。ディスクールフーコーの。ミシェル・フーコーの」
フーコーフーコーフーコーって何の人だっけ?『これはパイプではない』の人だっけ。しまったニューアカだ!!)←この間0.5秒
「あ、はぁ、へぇ、そうなんすか。自分では気付いてなかったんですが…。へぇ、フーコーねぇ、いやボクそこらへん全く分かんないもんで…すいません」
「はぁ、そうなんですか?てっきり矢野さんってそういうのイケるクチだと思ったんですが…」←微妙な“上から目線”がムカつく
「イケるクチって、酒じゃないんですから。まぁ確かに悪酔いしそうではありますね(笑)」

別に挙動不審になる理由などまったく無いはずなのだが、ニューアカ用語を振られると途端にキョドってしまう自分が情けない。「そこらへん全く分かんない」という台詞がまた、“物凄くアタマ悪そうな感じ”を醸し出していて、みっともないったらありゃしない。


そもそもなんでニューアカ用語を振られるとキョドってしまうのかをつらつら考えてみると、どうやら俺には「ポストモダンニューアカ用語を結局モノにできなかった自分」に引け目というかコンプレックスがあるようなのである。齧っちゃ途中で投げ出し、本を手に取っちゃ棚に戻し、図書館で借りたものの読む前に返却期限がきちゃって返し…というのを繰り返しながら気付いてみたら20年、みたいな。


別にそんなことは他の様々な音楽・文芸・アート・映画・ゲームetcのジャンルでもいくらでもあることなのに、この「ポストモダンニューアカ用語を結局モノにできなかった」というのは何故に俺のココロにこんなに引っかかるのか。ちょっと記憶を掘り起こしてみたい。

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まず、浅田彰の『構造と力』が出版されて思想書としては異例のベストセラーになったのは、俺が大学生のころだった。


浅田彰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0

構造主義ポスト構造主義を一貫したパースペクティブのもとに解説するという硬派な哲学書であったにもかかわらず、10万部を超すベストセラーとなった。翌年に出版した『逃走論』とともに、「浅田彰現象」を巻き起こし、現代思想ブーム、ニューアカデミズムの旗手となった。「スキゾ/パラノ」が流行語大賞新語賞を獲得した。


スキゾ/パラノ(笑)懐かしい。未だに意味分かってないけど。てなわけで、流行語としての「スキゾ/パラノ」と、藤子不二雄のマンガに出てくる “メガネ君キャラ”みたいな浅田の風貌は良く覚えているが、当時バカ学生の集団だった俺の周りで『構造と力』を通読できたヤツなど一人もいなかったと思われる。


どんだけバカだったかというと、友人に「浅田彰の『構造と力』」を「アサダショウの『構造とか』」と読んだバカがいたくらいだ。


コーノフミオ(実名)、おめぇのことだよ。


こんなブログ読んでないだろうし、言った本人はもうこれっぽっちも覚えていないだろうがな。百歩譲って「アサダショウ」はしょうがないとしよう。だが『構造とか』はねぇだろ、『とか』は!


さすがにこんなバカはコーノ(実名)以外にはいないだろうと思っていたら、爆笑問題の対談本『ピープル』で、中沢新一だか島田雅彦だかが、生徒にやはり『構造とか』と読んだのがいた、という笑い話をしていた。


他でもない中沢先生の生徒さんにいたんじゃあ、 コーノ(実名)が『構造とか』と読んでもしょうがないか。んーなこたぁねぇよ!(←爆笑田中風にツッコんでみました)


だが。


俺もコーノ(実名)を笑えない。


だって、サッパリ分からなかったんですもの。


仮に、当時の大学生で『構造と力』を通読して理解できた者を“構造とチカラ派”と名づけ、サッパリ分からなかった者を“構造とか派”と名づけて、分類したとする。俺は間違いなく“構造とか派”の側である。というか当時の大学生の95%くらいがそうだったのではないか。俺の周辺で“構造とチカラ派”の側に入れそうなヤツなど、皆無だったように思われる。


では、なぜそのように「ポストモダンニューアカ」は当時の若者にとって難解で分かりづらいものだったのか。にも関わらず、なぜ当時のトンガリキッズ(←死語)の間でそれほど「ポストモダンニューアカ」が席捲したのか。


それはCM2の後で。つうか下書きしたら物凄く長くなったのでここら辺でいったん区切る。続けるかも知れないし例によってこのまま尻切れトンボかもしれない。