手塚夏子『人間ラジオ』@8/1神楽坂ディプラッツ


「ダンスが見たい!」の手塚夏子公演、2日間のうち2日目に行ってきた。

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  • 手塚夏子(DANCE)
  • スズキクリ(DANCE・鳴り物)

開演前には、短波ラジオのチューナーのダイヤルをゆっくり回してノイズの向こうから色々な国の短波放送が入っては消えていく様子を録音したテープが流される(昔、“BCL”とかあったよな、懐かしい)。開演後は、音楽無し(スズキクリの身体につけた“鳴り物”の音のみ)。


開演、照明が点くと、会場奥・左右の楽屋口に手塚とスズキが立っている。


ダンス用の衣装ではなく普段着のようなラフな服装。スズキの身体にはあちこちにベルやフィンガーシンバルや民族楽器の鈴などの“鳴り物”が括りつけられていて、動くとカラカラと乾いた音がする。


楽屋口の奥の壁面には黒いラシャ紙が貼ってある。まず、観客に背を向けてここにチョークで絵を描くシーンからスタート。


両名とも腕をすばやく動かして、自動筆記のように抽象画風のチョーク絵を描いていく。スズキがどこか「ルドルフ・シュタイナーの黒板画」のような星や太陽を思わせる形を並べていくのに対して、手塚の動きは「絵を描く」という行為からは大きく逸脱している。全身をギクシャクと激しく動かしながら腕を振り回すその動作は、むしろ肢体不自由者の発作の痙攣に近い。手にチョークが握らされていて腕が激しく痙攣した際に、たまたま手が紙にぶつかるとそこに線が引かれる、というような。そこに描かれる線は乳幼児が初めてクレヨンで引いた線のようなギクシャクしたものになる。


ひとしきり描いた後、突然、二人で紙を破き始める。自分たちが描いた絵をビリビリに破いて足元に捨てていく。BGMもない会場の空間に、紙が破かれる音が意外なほど暴力的に響く。


絵が跡形も無くなってから、両名おもむろに正面を向いて、静かにゆっくりとホールに踏み出す。スズキは能の摺り足のように、極力動きを排してそろそろと歩みを進める。スズキはこの作品中、一貫して摺り足で会場内を無表情にゆっくりと歩き回ることのみに徹していた。どうやら、身体につけた“鳴り物”がなるべく音を立てないように注意を払っているようだ。だが歩みを進めるにつれ、どうしても音は鳴ってしまうわけで、それがこの作品の通奏低音を成している。


スズキの動きは、この後ほぼ同様の動き(しばらく静止したり、ホースをくわえてボーボーと吹きながら歩くなどのバリエーションはあるものの)で会場を(手塚を全く無視しながら)歩き回るのみだったので、以下説明は略。すいません。


一方の手塚は、綱渡りか平均台の上を渡るように、両手を広げてユラユラと不安定に揺れながら進む。ステージ右端、客先前あたりで静止し、マイム風の動きを開始。以下その後の説明。

  • 談笑するような様子(主婦の立ち話風)→何か争いか小競り合い?のような動き。これが何度も繰り返される
  • 直角に曲がって再びゆっくりと客先の前を横切って歩いていく
  • 途中、柱の陰にウクレレが立てかけてあり、それを拾って持って歩く:普通の楽器の抱え方ではなく、ヘッドをつまんでぶら下げるような持ちかた
  • 歩きながら、指で弦をはじくようにして爪弾く
  • ステージ左端に達すると今度はゆっくりと後ずさりながら楽屋口へ
  • ウクレレを“普通に”抱え、爪弾きながら、先ほど破り捨てた紙を踏んで音をたてる:しばらくウクレレと紙を踏みしめる音のみ。
  • ウクレレを置き、デジタルオーディオ・プレイヤーかリズムマシンのような機器のスイッチ入れる
  • いきなり音楽:ヒップホップ風(?)のビートの効いたアップテンポなリズムが大音量で流れる
  • 手塚が打って変わって満面の笑顔になり、モンキーダンス(?)風の動きでノリノリで踊る
  • ひとしきり踊り終えていったん退場


再び舞台右から登場、始めと同様にフラフラと前端まで歩いてきて、またマイム風の動き開始:

  • オニギリか小動物手のひらに持っているような動きをしながら、誰かと会話するようなジェスチャー
  • 突然、ビョン、とバネ人形のように動いて何か指さす
  • またバネ仕掛けのように動いて180度後を、振り向き、なにか空中を指さす
  • この動きが延々と執拗に(10回以上)繰り返される:繰り返しながら、身体の一部の動き(指・手・足の角度etc)が、ミニマルミュージックのわずかな変化のようにちょっとずつ変化していく
  • 再び舞台を横切って歩き始める
  • 今まで全く無言だったのが、声(「アッ」とか「ホウーー」とかいう無意味な発声)や笑い声(クスクスという含み笑いなど)が混じってくる
  • 突然「アーーーー!」という大声
  • 続いて、ステージ中央部まで進み、突然、文部省唱歌「海」を絶叫。「う〜み〜は、ひろい〜な、おおき〜いなぁ〜」を、断片的に三回、繰り返す
  • やおら、ホウキを持ち出し床を掃除しはじめる
  • スズキと二人で、自分たちの破いた紙を楽屋口に掃き出して片付け、暗転

終演。


いやぁ....。何と申しますか、終演後の第一印象として俺の中に浮かんできたコトバは「メリハリの効いたワケの分からなさ」とでもいうようなものだった。


手塚の動きは一見、「木の芽時になると出てくる、町なかでブツブツ独り言を呟いたりニヤニヤ笑ったり、突然大声を出したりする人」、いわゆる「デムパな人」みたいで、町で会ったら目を合わせないようにしちゃう人の動きをステージで延々見せられたような気になる。


だが。


どうも、いわゆる「エキセントリックでグロテスク/グラン・ギニョール的」なダンス/身体表現とは、異質なもののような気がするのである。


俺もそんなにダンスを量観ているわけではないのだが....


現代のダンス/演劇/身体表現の一部は、かねてから「グロテスクなもの」「禍々しいもの」「おぞましいもの」をあえて前面に出すことで、時代や状況に裂け目を入れるとか、観客に本来の人間の姿を想起させるとか、まぁそういうことをずっとやってきた。


いわく「突っ立ったままの死体」いわく「現代社会で疎外される人間の姿をグロテスクにデフォルメ」いわく「日常生活で抑圧された情念が狂気として噴出するさま」いわく「○○としての『わたくし』の解放(○○=各種のマイノリティ)」いわく「消費社会を実現する代償として大量死に追いやられた死者の影」etc, etc...


手塚の表現は、「狂気」「病者」「障碍者の動き」等と極めて近似しているが故に、表層的に見ればそれらと同列またはその流れにあるものとして観られてしまう危うさを孕んでいる。


しかし。


今回の手塚の表現に寄り添ってみて感じたのは、上記に記したような「おぞましいもの」系(ぶっちゃけていえば日本アングラ舞踏系)のコンセプトとは、かなり異質なものなのではないか、ということだった。


それは。


一種の「無邪気さ」のようなものなのではないか、と思う。


「無邪気さ」というと、アングラな演劇や舞踏だとすぐ「子供が持つ無邪気な残虐性」みたいな手垢の付いたものに結び付けられてしまいそうだが、俺が言いたいのはその手の無邪気さともまた別種のものだ。


例えば。


地球人を全く知らない宇宙生物がいたとして、人間の身体とか筋肉とか神経とかを何かの技術や超能力で遠隔操作したらどうなるか。


人間を操作というと、すぐ「Xファイル」に出てくるアプダクションをするグレイ系宇宙人とか「スタートレック」に出てくるボーグとか、はたまた「マトリックス」に出てくる機械生命体みたいのを想像してしまいがちだが、そういう「侵略の意図がある敵」ではなく、人間のことをまったく理解できない、つまり「異性人」とか「知的な存在」どころか、それこそ「生物」と認識してないとかだったらどうだろうか。


ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの小説「ソラリス」では、惑星ソラリス全体を覆うゼリーとサンゴ状の物質からなる“海”が一種の集合意識を持った生命体であるとされる。この“海”は、地球人の脳波を受信すると、そこから情報を抽出して人物や風景を“実体化”するのだが、それが何を意味しているのか、地球人にとってどういうものなのか、“海”には全く分かってないというか全くの無頓着なのである。


ソラリスの海”が地球人の脳波から拾った情報を元に実体化した“背丈4メートルの巨大な赤ん坊”の神経や筋肉をいろいろいじくって試しているシーン:

赤ん坊は波の間をただようように上下に揺れていましたが、奇妙な事に、それとか無関係に、さらにからだや手足が動いていました。それがまたぞっとするほどいやな光景でした!(中略)
どこか博物館の人形のような、それも生きている人形のような感じなのです。口を開けたり閉じたりして、いろいろな仕草をするのです。そのいやらしさったらありません!赤ん坊のするような動作ではありません。(中略)
全体として、どうしても生きているように見えました。ただその動作なのですが、まるで誰かが試している、誰かがその赤ん坊を研究しているような感じなのです......(中略)
あの赤ん坊の動作は体系立っているのです。ちゃんとした秩序があって、いくつかの区切りがあり、それぞれのグループの動作がまとまっているのです。まるで、その赤ん坊の手にはどんな動きができるか、胴体や口にはどんな動きができるのかを、誰かが調べてでもいるような感じです。
(早川SF文庫『ソラリスの陽のもとに』飯田 規和訳 134〜136ページ)


手塚夏子にとっての身体表現は、このような種類の“無邪気さ”を中核としていると思う。それは現代のダンス/舞踏シーンでは、極めて特異な立ち位置だといえるのではないだろうか。


....ダメだ、もの凄く分かりづらい。「比喩」というものはモノを分かりやすく説明するためのものなのに、全くの逆効果だ。なにやってんだ俺。