Sound Junction 補遺


さて。今回俺が個人的に密かに期待していたのは、“いわゆる即興演奏”とは志向の異なる何人かの奏者が同時に演奏して、どのような結果が出るかという事だった。


なお、以下の記述は、誰と誰が、成功/失敗、正しい/誤り、ナウい(死語)/古い、等ということを述べているのではないので念のため。

(以下敬称略)


伊東篤宏は、蛍光灯の放電を利用した創作楽器“オプトロン”を床に寝かせて、ラジオや直江の短波ラジオ、Analogicのテレビ、鈴木のエレクトロニクスなどから発せられるノイズを蛍光灯が拾う様子を提示した。


Analogicは、会場に立てたマイクで周囲の音を拾い、古いテレビのブラウン管に表示する事で“音を観せ・画像を聴かせる”。


フリー・インプロヴィゼーション・シーンの勃興当初からエレクトロニクスの演奏というのはあったし、演奏の場に異化作用をもたらすものとして使われてきた。だが、この日の演奏で、伊東やAnalogicの二人組は、演奏行為としてはほぼ“何もしていない”。他の奏者がplanBという微小空間に蠢く細胞や微生物だとしたら、彼等の存在はいわばウィルスのようなものだ。レトロウィルスとしての音楽。他のミュージシャンの音を“借りて”成立する音楽。


古池寿浩は、この日の演奏中、ほとんどトロンボーンに吹き込む息の音だけで通した。それも最近のヨーロッパ即興シーンのトレンドである“息の柱”によるフリー・インプロヴィゼーションではなく、徹底して無表情に“ただ息を吹き込んでスライドを前後させるだけの行為”を淡々と繰り返していた。


進揚一郎は、非常に特異なスタイルのドラマーである。演奏スタイルはカンのヤキ・リーベツァイトと髣髴させる“人力テクノ”的なものだが、16ビートを刻んでいるときにいきなり14拍めとか15拍めとかで音が切れたりする。それが“ブレイク”や“変拍子”ではなく、リズムマシンのスイッチをふとOffにしたように演奏が止まるのである。つまり演奏の指令を出すアタマとドラムを叩くカラダが乖離しているのだ。いわば“離人症ドラム”。


進は「ドラムを使ってはいるが“ドラミング”はしていない」と言えるし、小池は「トロンボーンを使ってはいるが“ラッパを吹いて”はいない」と言える。


伊東・Analogic・小池・進のようなアプローチは、旧来のフリー・インプロ・シーンでのエレクトロニクス使用や、かつて間章が言った“アマルガム”とは様相が異なる。このような“演奏”のありかたには未だ名前がついていないし、まとまった批評もまだごく少数だ。


ただし。


この日、そのようなアプローチの“演奏”によってなにか“成果があったか”“実りがあったか”率直に言って「面白かったか」といえば、疑問符がついてしまうのが正直なところ。


俺が思うに、彼等のコンセプトが効力を発するには、ライブの成り立ちに非常に繊細な“仕掛け”を施すことが必要だと思う。


彼等の“音楽”には、いつ・どこで・誰と・どういう関係を結んで、その結果として音を出しているということが重要な要素になってくるはずなのだ。それは:

などに一脈通じるものだ。


だから彼等の演奏は、他の演奏者とただ並列した・混ぜ込んだだけでは奏功しない。単なるノイズ奏者が参加しているだけになってしまう。


この辺りは、今後第2回・3回と継続していくに当たっての課題なのではないか。その課題をどうするかは、ミュージシャン個々の責任と問題だ。自分たちの方法論の有効性を信じるのなら、発案者である今井に「こんな風にやってみたい」と積極的にアプローチしたほうが良いと思う。


ちなみに、誤解を与えないようにしたいのだが、上記に挙げたミュージシャンは全員、“そのような演奏だけ”を専門にするものではない。


伊東と進はオプトロンと爆裂ドラムによるハードコア・ユニット「Optrum」を組んでいるし、古池も板倉克行とのグループやいわゆるフリー・インプロヴィゼーションの演奏も行なう。皆、振幅の大きいミュージシャンであり、その“振り子”の位置のどこに焦点を合わせるかによって、次回以降の展開は変わってくるかも知れない。


ともあれ。


即興演奏は、過去、つねに「これのどこが音楽なの?」「こんなモノは○○に過ぎないだろう」と言われるような要素を取り込むことで刷新されてきた。フリー・インプロヴィゼーションしかり、フリー・ジャズしかり、現代音楽で即興を取り入れたものしかり。


だから俺は、聴衆の一人として、門戸と“耳”を開いておきたいと思うのだ。


何しろ、ビバップでさえ出現した当初は「雑音」「踊れないジャズ」と言われて“異物”“時代の鬼子”だったのだから!