青柳龍太・牧野貴@アユミギャラリー


映像作家で、昨年山内桂・tamaru・ジム・オルーク等と共演やコラボをしていた牧野貴氏の個展に行ってきた。


牧野貴 Webサイト
http://www13.ocn.ne.jp/~makinokn/
青柳龍太 牧野貴 二人展『ここにいる間』
http://www13.ocn.ne.jp/~makinokn/jp/news.html


会場の「アユミギャラリー」は↓こういうところ。俺も初めて行った。

アユミギャラリー
http://www.ayumi-g.com/
http://www.ayumi-g.com/ks/arc/14ayumig/sakuhin14.html


凄い。東京のド真ん中、神楽坂に、ジブリのアニメに出てきそうな一軒家のギャラリーが。2階はオーナーのかたの建築事務所になっていて、1階がギャラリーになっている。


仕事を片付けて、夜6時過ぎに到着。ギャラリーの中は、いわゆる裸電球が数個、照明として吊るされているのみで薄暗い。南向きに大きな窓があるので昼間は明るいのだろうが。


(以下はこの↓平面図をご覧になりながらお読み下さい)
http://www.ayumi-g.com/ks/arc/14ayumig/newzu.gif
入口を入ると正面の壁に、赤錆びた農機具のフォーク(藁や牧草をサイロやトラクターに載せるアレ)が立てかけてある。その右手の床には何か草か堆肥のようなものが高さ1メートルくらいにうず高く盛られている。近寄ってよく観ると、人間の髪の毛―カツラの廃品か何か―を大量に積み上げてあるので思わずギョッとする。その背後の壁にはA2版くらいの大判の紙に小さな文字で:

それでもこの土地を耕しなさい。

これが青柳氏の作品その1。


左手の部屋には、ビデオプロジェクターが置かれて奥の壁に牧野氏の映像作品がエンドレスで投射されている。


モザイクやステンドグラスや抽象絵画のような光が明滅する作品だが、ときおり断片的に対象が像を結ぶと、シンプルに木漏れ日を8ミリフィルムで取り続けたものであることが分かる。夕陽が常に画面中央に据えられていて、前景の樹木が風でそよぐと、中央の光が脈動しているように見える。


さらに、左奥の部屋には青柳氏の作品がもう一つ。


こういう風に、白熱電球が1個、床の近くまで下ろしてあり、その光の傘の中に、文字を打った紙を入れた小さな額が立ててある。覗き込んでみると:
http://nekko.seesaa.net/article/33186642.html

この空間には争いがない
この部屋には壁がない


この、紙に打たれた文字は、わざわざ活版で、職工のおじいさんに文字組みを頼んで打ってもらったものだそうな。俺は日本語の組版は活版で組むのが一番美しいと思っているので、このコダワリは嬉しい。ざらついた紙に僅かに文字面が窪んでいるのも懐かしい感じ。俺、活版って版画の一種だと思うんだよな。


BGMに、ECM New Series から出ていたヘルベルト・ヘンクによるケージの初期ピアノ曲集から "In a Landscape" がエンドレスで流れている。まるでこの個展のために委嘱した曲のように会場の雰囲気に合っている。ペダルを踏み込んで残響を残した音が美しい。

Early Piano Pieces

Early Piano Pieces


青柳氏のインスタレーション(...としか言いようがない、下記リンク先のインタビューにも関わらず)は、いろいろと深読み――詩的 or 宗教的 or 政治的――できそうなのだが、どうとでも取れそうである故に、逆にどうとも取ることが出来ない、みたいな印象。でも決して「鑑賞者を煙に巻くイジワルな感じ」というかコンセプチュアル・アートにありがちな「鑑賞者に何かを突きつけてくる感じ」が無いのは好印象を受けた。


会場には青柳氏と平野氏も来ていて、赤ワインを振舞ってもらった。だからというわけではないが(笑)夜半の薄暗い日本家屋で、ピアノのループと明滅する明かりに照らされながら、数分間誰も会話を交わさずに沈黙している、という瞬間が何度か訪れた。発話への強迫というか「沈黙が怖い」という強迫が世間を覆い尽くしている今のこの国で、それはとても心地よいことだった。


【参考サイト】
旅する建築家・鈴木喜一の台地の家 - ギャラリーオーナーの鈴木氏のブログ
http://daichinoie.blog6.fc2.com/
http://daichinoie.blog6.fc2.com/blog-entry-1369.html#more


モノラバ対談 - 青柳龍太氏へのインタビュー
http://nekko.seesaa.net/article/20778900.html#more