ヴァンデルヴァイザー楽派とは何か (1)


さて、無謀な試みをしてみるか(笑)。


この日の日記とか
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20061102/p1
ここらへんの
http://www.web-cri.com/index.htm
ここらへんで取り上げられてる、
http://www.web-cri.com/review/0605_outdoor-live_v03.htm


ヴァンデルヴァイザー楽派のいう人たちの“音楽”(?)って何?どこが面白いの?面白くないのになんで聴いたりするの?我慢してるの?なんか馬鹿じゃないの?という疑問に答えようとしてみるテスト。


例えば、この手の音楽を語る際によく引き合いに出される、ミニマル・ミュージックとか、ケージとか、フルクサスの音楽パフォーマンスとかと、どこが違うのだろうか。


まず、音楽をなにか食べ物に例えてみる。


例えばウドンなんかどうだろう。今年は映画「UDON」も公開されたことだしちょうどいいかな。


さて、ウドンを食す楽しみとは何かといえば、一般的には、その麺の食感、コシとか歯ごたえとかノド越しとか、およびダシの味覚、風味とか味わいとかコクとかを楽しむものだといえるだろう。


世の中の殆どの音楽は、ウドンの楽しみ方と同じようにして音を楽しむものだといえる。


麺にあたるものが旋律だったり、おつゆにあたるものが和音だったり、楽器の音色にあたるものが素材である小麦粉や鰹節や昆布やイリコや上質な水だったりするわけだ。


料理を褒めるときに、よく「味わいのハーモニー」とか「○○と××の絶妙なアンサンブル」とか言うしな。そういえば料理や酒の味わいを形容するときって、よく音楽が引き合いに出されるよね。やっぱ音楽も料理も本質は調和(ハルモニア)だからか?


いわゆるミニマル・ミュージック*1は、要するに「最小限、良い水と塩と鰹節と小麦粉だけあれば、おいしいウドンは作れるし、それが本来のウドンなのですよ」というような主張を音楽の分野でやってるわけだ(ほ、ホントか...? 汗)。


ちょっと脱線するけど、ミニマル・ミュージックに比べると、ワーグナーの楽劇なんてものは、ゴテゴテした趣味の悪いオリジナル創作麺料理、みたいなもんかもしれない。ほら、あんじゃん、「オリジナル創作料理」と称して、肉だの野菜だの海産物だのがオプションパーツフル装備のガンダムみたいに乗ってるラーメンとかスパゲッティ。またはゴテゴテしすぎて子供が絵に描けない最近の仮面ライダーみたいになってる創作料理。ワーグナーの音楽ってそんな印象があるんだよなー。


続いてケージとフルクサスについて。


俺は、ケージの作品と活動の本質は、とんちだと思う。つまりケージは、現代音楽界の「一休さん」である。だからケージが禅に傾倒したのは必然的なことだった。一休さんって禅僧だし。


あるいは、ケージは漫画「美味しんぼ」の山岡士郎とでもいうか。


「本当のウドンの美味しさを確かめるには、こうするんですよ」ザザーーー
「あぁ!最高級の鰹節を使った秘伝のツユを捨てるなんて!貴様何をする!」
「こうして、ウドンだけを味わってみてください」
「おぉ、これは!モッチリとしつつコシのある、ウドン本来の歯ごたえと食感が(以下略)」
「これが本当の讃岐ウドンの味わいなのです」


まぁ、屁理屈なわけだが。


ケージの「4分33秒」は、音楽史上に残る偉大なとんち≒屁理屈だった。


そして、フルクサスのパフォーマンスやハプニングは、このとんち≒屁理屈を、“悪ノリ”のレベルまで拡張したものではないかと思える。


ウドンの上に唐辛子を一瓶ぶんドバッと丸ごとぶちまけて、それを食べる、しかも全裸で、みたいな。


フルクサスのパフォーマンスって、そういう“罰ゲーム”っぽさと、むやみと裸を出す、というところがポイントだよな。氷の彫刻のチェロを全裸で抱いて溶けるまで引き続けるシャーロット・ムアマン(Charlotte Moorman)の「アイス・チェロ」(Ice Cello)なんかが代表的だ。まぁフルクサスに限らず、あの時代のネオダダとか反芸術とか「具体」とかの運動って、みんなそうだけどな。裸出しときゃスキャンダラス、みたいな(言いすぎ?)。


んで、ケージとフルクサスの以上のような活動の特徴は何か。


それは、“敵”の存在である。


とんちというものの存在意義は、揶揄・風刺・屁理屈を通じて、権威や体制への抵抗を企てるとか、既成観念の異化・相対化・脱構築を企てるところにあると思う。


だから、ケージやフルクサスの活動は、クラシック/現代音楽界とか美術界とかの権威が堅固であればあるほど有効だった。


一休さんでいえば、足利将軍や仏教界の偉い坊さんがやりこめられて
く〜〜っ、おのれ〜、一休〜〜!
とか地団駄踏んで悔しがれば悔しがるほど大成功、みたいな。


さて。


ここまで来て、ようやくヴァンデルヴァイザー楽派の話に移るわけだが。前置き長すぎだよ>俺。


ヴァンデルヴァイザー楽派には“敵”はいるのだろうか?どう観て(聴いて)も、そうは見えないねぇ。


では、彼らの活動は、何のために、何を目的に、何を示そうとして、あるいは、何のためでないように、何を目的としないように、何を示さないようにして、行なわれているのだろうか?


(以下続く)

*1:ここは「いわゆるミニマル・ミュージック」と1語で読んでください。マイケル・ナイマンとかマイケル・トーク等のいわゆる“ポスト・ミニマル”の人々、レコードレーベルでいうと Argo とか New Albion の作品、またはその他凡百の“癒し/ニューエイジ系”CDのを指していると思っていただければ。フェルドマンとか初期ライヒのやってたことはもっと本質的にラディカルだったと思うので。そういえばフェルドマンや初期ライヒと、ポスト・ミニマルの作曲家の関係って、なんかエコロジーの初期からの活動家と最近の「ロハス」の人たちの関係に似ている。オリジネーターのラディカルな批評性を去勢・漂白して(以下自粛)