ソリッド/アトラクティヴ試論:(寄り道)音楽批評をなりたたせるもの


前回の続き。長くなったのでこちらに移す。

ベイリーが「ソリッドなもの」の世界に認識されていたことを想像するのはそれほどたやすくはない。かつてそうしていた様に今ベイリーの音楽に接することはもうできなくなっているからだ。

(杉本拓「ふたつの世界」2006年2月 『三太』1号所収)

...に対して、

  1. 「かつてそうしていた様に今ベイリーの音楽に接することはもうできなくなっている」ことは、はたして全世代に敷衍しうるのか
  2. 「想像するのはそれほどたやすくはない」「もうできなくなっている」というのは本当か

というののうち、2について。


ベイリーが「ソリッドなもの」であった感覚を、今現在再び取り戻すのは不可能なのか。


ここは、少し寄り道というか話を広げて、音楽批評が批評として成り立つためにはどうあるべきか、についてのメモというか一人ブレイン・ストーミングの中身そのまんまである。まとまりが無くて申し訳ない。なんせブレストだからね。


例えば、俺が、アメリカのポピュラー音楽史を研究していたとする。


んで、そんな俺が、大学の紀要とか学会発表用の原稿を用意するためではなく、“活きた”評論をものすとしたら、「エルヴィス・プレスリー登場前の、平均的なアメリカ合衆国国民の音楽生活」を想像出来なければならないのではないか、と思う(何をもって“平均的なアメリカ人”とするか、そもそも典型的なアメリカ人って何よ、という話をし始めるときりがなくなるので、そこはひとまず置いといて)。


その時代とは、ヒットチャートの常連といえば、ベニー・グッドマン楽団とかグレン・ミラー楽団とかだった時代。男性歌手といえばビング・クロスビーとかメル・トーメとかで、“ちょいワル”なイメージの歌手なんてせいぜいフランク・シナトラとかだった時代。コンボ形態のバンドといえばカントリー・ミュージックで、エレキ・ギターといえばまだ「テケテケテケ」ともいわず(笑)レス・ポールとかチェット・アトキンスとかだったりした時代。


そんな時代に登場したエルヴィスの衝撃。もし俺がその時代のその衝撃をヴィヴィッドに活写するなら、俺はひとまず、エルヴィス以降を知っている俺の知識や経験や感受性を「いったん棚に上げて」、ヴァーチャルに、エルヴィスを知らない俺になってその音楽に触れる、という経験をできなければならないのではないか。


映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズでは、50年代にタイム・スリップした主人公がダンス・パーティでヴァン・ヘイレンばりにギターを弾きまくって会場をドン引きさせるという場面があるが、あんなの論外。音楽の未来を全て知ってしまっているなんて、地獄の悪夢だ。50年代にタイム・スリップしたのなら、それ以降の音楽の記憶なんて全部無くなっていなっきゃ、全然面白くないよ。


音楽批評とは、とかく「良く聴いて・調べて・掘り下げて」という営為のことだと思われがちだ。でも、そういうマメさや精緻さとはまた別に、“いったん忘れてみる”ということもまた非常に大切なのではないか、と思う今日この頃である。って何様だ俺。