三太座談会のための予習メモ。


(えー、これは、あくまで自分用の、考えまとめるためのメモなんで、けっこうとっちらかってます。しかも書きかけ。これから三太座談会@明大前にむかうにあたって、ちょっと脳内エステをしようかと。だから、残りは帰宅後に加筆するか、全面改稿するか、このエントリー自体消すかもしれません)



以前、地元にある「東京海洋大学http://www.kaiyodai.ac.jp/Japanese/index.html(旧・東京商船大学)の文化祭に行った時に、そこの教授から面白い話を聞いた。


教授が来場者に尋ねる。「クイズです。極点(北極点または南極点)に立ったとき、東西南北はどうなるでしょう?北極点にたったら、南はどちらの方角?西や東は?」


「え〜と、立ってるところが“真北”なんだから、南は、足の真下の地下?西と東は...。アレ?良くわかんないや(笑)」「ブ・ブー。不正解」


「例えば北極点に立っていて、そこから踏み出そうとする場合、どこに向かっても、“北以外の方角”に進むことになります。南極点でも同様です。つまり、北極点では周りは360°全て“南”。南極点では周りは360°全て“北”です」 「いい線行ってますね。でも惜しい。三角です」


「正解は、“方位はなくなる” です」


「極点においては、「方位」という概念は無効になります。つまり、意味がない。方位という概念が消失する、とも言えます。極点に到達した瞬間に、私達は“方角の概念は存在するが、方角の概念が破綻している世界の住民”となるのです」


じつに示唆に富んだお話である。


この話題は、即興演奏、特に「ノンイディオマティック(またはフリー)・インプロヴィゼーション」と称される音楽のありかたにも、象徴的だが極めて重要な示唆になっていると思う。


杉本拓は、フリー・ペーパー「三太」1号で「ふたつの世界」と題して、「ノンイディオマティック(またはフリー)・インプロヴィゼーション」と呼ばれる音楽について興味深い論考を著している。

私がこれから書こうとするのは、極めて漠然とした分け方しかできないが、ある二つの芸術のあり方の対立、その境界線で起こっている事、そして一方の世界からもう一方の世界への移行である。
(中略)
ふたつの世界とは―とりあえずの命名ということで許してほしいが―「ソリッドなもの」と「アトラクティヴなもの」である。
「アトラクティヴなもの」は「ソリッドでないもの」すべてである。99%以上のものがこちら側に属する。なので圧倒時にこちらの世界のほうがポピュラーである。当然人気も高い。
(中略)
さて、いきなりだが、デレク・ベイリーは「アトラクティヴなもの」の世界に入る。昔はそうでなかった可能性は高いが(確実であろう!)現在の視点からは、ベイリーが「ソリッドなもの」の世界に認識されていたことを想像するのはそれほどたやすくはない。かつてそうしていた様に今ベイリーの音楽に接することはもうできなくなっているからだ。
(杉本拓「ふたつの世界」2006年2月 『三太』1号所収)


まさにそのとおりである。

デレク・ベイリーを我々は他のどのような演奏者にも与えることのできない演奏の極北者の位置においてしか見定めえないだろう。それは多分誰からもどこからも離れた彼だけしか立っていないひとつの奇跡的なまばゆさのなかにある。
我々はその彼の位置=場所をどのようにしても、これまでのあらゆる演奏の―たとえそれがジャズであろうとなかろうと―歴史や連続のなかでとらえることができない。
間章デレク・ベイリーの方位へ―即興演奏の新しい地平」1978年4月 『モルグ』創刊準備号→『この旅には終りはない』(柏書房)所収)


というようなナイーヴな見方(聴き方)を、今、俺はすることはできない*1


さて。

  • 杉本氏の言う「ソリッドなもの」と「アトラクティヴなもの」。
  • ベイリーの「ソリッドなもの」から「アトラクティヴなもの」への“転向(?)”

これを読み解くにあたって、冒頭の「極点における“方位という概念の消失”」という考えが、例えというかヒントになるのではないか、というのが最近俺が考えていることなのである。


すなわち。


ある演奏家が、“ソリッドな表現”を達成した瞬間、その演奏家にとって「ソリッドなものとは何か」という“問い”は消失する、としたらどうだろうか。


間章の文章も、偶然(?)“方位”とか“地平”とかいうタームを使っているので都合がいい(笑)。


ベイリーは、ある時期(70年代中盤〜末)にかけて「ソリッドなもの」を達成しえた表現者だったことには、俺も全く異論はない。モルグからの "New Sights, Old Sounds" (Incus CD48/49) なんか聴くと未だに「もう、これ極致だよな」なんて感じる。だが俺もやっぱり、その後ベイリーは確かに「アトラクティヴなもの」のほうに言ったと思う。


それは、ベイリーにとって70年代末で「ソリッドな表現とは何か」という“問い”は消失したからなのではないか。推測だけど。


では、この「極点に達したら“方位が消失する”」≒「ソリッドな表現を達成したら“問い”は消失する」という事実(?)に対して、アーティストはどのようなアプローチを取りえるのか。それをこれから考えてみたい。


と、ここまで書いて時間切れだ。やばい、遅刻する。では、いってきまーす。このあとどうするかは、白紙。

*1:つーか今回、久しぶりに改めて間章の本を読み返したが、もー、ちょっと余りにもブンガク的な修辞の羅列に、しょーじきいって辟易した。こういうのはもう受けつけないなぁ俺。