子猫殺し作家から間合いを取る


数日前から一部ネットで炎上している、作家・坂東眞砂子が飼い猫が子猫を産んだら殺しているという件について見解を。一応、たまにセガレ(オカマ猫5歳、キジトラ、体重6kg)をネタにしている身として。


参考サイトは下記のとおり。


作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る - 痛いニュース(ノ∀`)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/770743.html

鬼畜子猫殺し坂東眞砂子 - ニュー速用まとめ wiki
http://news.80.kg/index.php?%B5%B4%C3%DC%BB%D2%C7%AD%BB%A6%A4%B7%BA%E4%C5%EC%E2%C3%BA%BD%BB%D2

坂東眞砂子氏のエッセイ「子猫殺し」について。 - 人力検索はてな
http://q.hatena.ne.jp/1156172644

坂東眞砂子氏コラム「子猫殺し」関連のまとめ - ハマる生活/ウェブリブログ
http://stakasaki.at.webry.info/200608/article_14.html
↑一番冷静・客観的なまとめページという印象。

他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

坂東眞砂子氏の話 - NIKKEI NET:社会
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060824NTE2INK0224082006.html

タヒチ島に住みはじめて8年経ちます。この間、人も動物も含めた意味で『生』ということ、ひいては『死』を深く考えるようになりました。7月から開始した日本経済新聞社紙面『プロムナード』上での週1回の連載でも、その観点からの主題が自然と出てきました。『子猫殺し』のエッセイは、その線上にあるものです。ことに、ここにおいては、動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからです。 (14:39)

...だそうである。


さて。


俺も、書こうと思えば、このブログ始まって以来の長文と罵詈雑言の限りを尽くしたエントリーを山ほど書く自信はある(笑)。


だが、ちょっと待て。


ここは敢えて、一歩引いて考えてみるというのはどうだろうか。


この坂東氏の行為に対する批判や異論・反論の多くは以下のような形をとっている:

  • いわく 「生命ってそんなもんじゃない」
  • いわく 「飼い主の責任ってそんなもんじゃない」
  • いわく 「出産/生殖ってそんなもんじゃない」
  • いわく 「ペットの去勢は個体にそれほど深刻なダメージを与えるものではない。現に去勢前と後では...」 etc...

俺は、その意見の多くに深く賛同する。


だがどうも、くだんの行為に対抗するのに“倫理を問う”ことや“反証を積み上げる”ことが、あまり有効ではないのではないか、という気がしてならない。それはどうしてなのだろう。その辺を考えてみたい。


俺、上記に記した異論・反論のような“倫理を問う”とか“反証を積み上げる”やりかたって、なんかボクシングとか格闘技でいうところの“クリンチ”っぽい、と思ってしまうのだ。リングの上でガッチリ四つに組んで膠着状態になっちゃってるみたいな。古武道でいう“居付いてる”状態。


“観客席”からみると「その態勢から打撃系の技出せねぇだろ」「早く離れろ」てな具合にヤキモキした気分になってしまう。


打撃系の技を繰り出すには、いったんクリンチの態勢を解いて、間合いを取らなければならない。


間合いとは、“有効打を放つための適切な距離”ということである。


それでは、ここでいう“有効打”“打撃系の攻撃”とはなんだろうか。


それは、坂東氏の論旨を“無力化”するのに“効く”コトバ、その論旨を“相対化・無効化”できるコトバ、のことではないのか。


つまり、“効く”コトバを放つには、この作家がこの記事で述べている主張や論旨から、いったん適切な距離をとらなければならない。


では、“効く”コトバを放つための適切な距離とは、なんだろうか。


それは、ある作家がオピニオンやマニフェストを述べたり、何らかの行動を通じてその主張をするとき、そのオピニオンなりマニフェストなりアクションなりが、その作家の“実存”とどれだけじかに、分かち難く結びついているかを“見切る”だけの距離、ということなのではないだろうか。


では、その距離を見切る、なんか“定規”みたいなものはないかな。


そんなことを考えていたら、下記のブログを見つけた。一連の批評で、俺が最も得心がいったものの一つだ。


子猫殺し - 佐藤亜紀日記
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2006/08/2006823.html

ぬちゃぬちゃのぐちゃぐちゃのどろどろの何だかよく分からないクトゥルー的な女の業は、古来より女流文学者の得意技であった。と言うか、それをやっている限りは女流文学者は文壇でかいぐりかいぐりして貰えたものだ。坂東氏の小説の背景にあって独特な色彩を作り出してきたのもそうした全く古典的な文学上の趣向の採用である。

そうだ!「クトゥルー的な女の業」を売りにしている他の「古典的な」女性作家と併置してみるのはどうだろうか。


例えば:

なんかどうだろう。


あ、何人かモニターの前から引いた気がする(汗)。


命 (新潮文庫)

命 (新潮文庫)

妻ある男性との恋愛、妊娠、そして男の変心。さらには、かつての師であり、10年間共に暮らした恋人でもある東由多加氏との再会と、東氏の癌闘病、そして出産を迎えるまでを描いた本作は、柳氏の人生のなかでも最大のスキャンダルかもしれない。しかし同時に、「崩壊した家族」のなかで作家的感性を養ってきた柳氏の、命をかけた「家族再生」の試みでもあった。


私たちは繁殖している (6) (ぶんか社コミックス)

私たちは繁殖している (6) (ぶんか社コミックス)

カスタマーレビュー
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春菊先生の難儀な性格が伝わってくる本。もう苦笑。春菊先生にクリエイティブな才能があるのは認めるが、こんなに被害的な性格ではご本人も周りも難儀だろうと思う。「繁殖」4巻目くらいまでは読んでいて「悪口かいていやだな」と純粋に思っていたが、この巻まで来るとむしろ「あーあ」と暖かく見守ってあげたくなる。ユーヤのお父さん夫婦も決して悪い人ではないのに、どうして春菊先生は昔からウマの合わない人と一緒に過ごす羽目になってしまうのか。実は次の巻が楽しみ。彼女の「わが闘争」はいつ終わるのか?


まず、毎度おなじみ後半の老人イジメ部分は著者の無慈悲さと厚顔さが一層パワフルに。女に甘える女の真骨頂として全ページに渡る「お前が言うな!」的内容、必見です。
孫と息子を人質に取られ、反論もできない老夫婦の心境を想像しつつ読むと、アキ・カウリスマキの映画を見ているような悲しみ笑いがこみ上げてきます。世の中一寸先は闇。

レビュアーのひと、GJ(笑)


私、Hがヘタなんです! - Yahoo!ブックス
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31088742
インタビュー - 中村うさぎ
http://books.yahoo.co.jp/interview/detail/31088742/01.html

買い物依存症もホストクラブ通いも整形も、元をたどれば私自身のコンプレックスの問題からきてるわけで、今回の性に対する探求も含めて、そういった行動のひとつひとつは、わたしのコンプレックスはなんなのかっていうことに対する問いかけなんです。つまり、自分のコンプレックスの根っこに近づきたいがために、いろんなことに足を踏み入れてしまう。根っこに到達しない限り、たぶんずっと繰り返してしまうんだろうとは思うんですけど……。


彼女たちの共通項は、「私という病」を生きている以上、その行動や言動や作品が作家本人の実存と分かちがたく結びついており、そのような生き様を止めたりすることはできない、というところにある。


だから、上記3人の場合、作品が嫌いな人はその作家の「存在自体も大嫌い」だったり、その作家のエッセイや発言を読んで嫌悪感を抱いた人が作品を読んでみると「やっぱダメだ、生理的に合わない」だったりするのである(笑)。さっきモニターから引いた人、戻ってきて。


行動や言動や作品が作家本人の実存と分かちがたく結びついているとは、つまりこういうことだ。

  • : 時と所が変わっても、妻子持ちを落として不倫して、修羅場の果てに相手の家庭を壊さずにいられない。
  • 中村: 時と所が変わっても、浪費と整形と歪んだ自分探しは止められない。...ただし、こいつ外国に住んでたら今頃とっくにエイズで死んでるに違いない(笑)。
  • 内田: 時と所が変わっても、若い男をメカケに囲って妊娠してポンポン子供産むのは止められない。

さて、我らが坂東センセイの場合、どうだろうか。


時と所が変わっても、飼い猫が子猫産んだら、殺さずにはいられない


ホントにやったら、ぶっちゃけキチガイだろ、それ(笑)


子猫殺しねぇ。

  • 「自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び」
  • 「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受け」
  • 「それは人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じる」
  • 「生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題」

全く重みも深みも感じないよね。それこそタヒチから引越しちまえばピタリとやむんじゃないの。


なんかそれが、坂東センセイの実存と分かちがたく結びついていて「そうしないとワタシがいなくなっちゃう!」的な切実さは、全く感じられないのだ(まぁ切実に感じてたら病院送りなわけだが)。


再び「佐藤亜紀日記」から。
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2006/08/2006823.html

とすれば、このぬちゃぬちゃの(以下略)的告白もまた、坂東氏の文学的な趣向の誇示に過ぎないのではないか。そうだとすればこれは、命の重みを何と心得る、ではなく、この上なく醜悪な文学者気取りの発露、我々はみんな業深のポーズに釣られただけ、ということになってしまうのだが。


そういうことになってしまう、と思う。


つまり、我らが坂東センセイの子猫殺しの動機とは:


ここらでアタシも、いっちょ世間様の顰蹙を買うようなスキャンダルをしでかして、「無頼派」にハクづけを。


という事に他ならない。


結論。


坂東眞砂子の子猫殺しエッセイは、無頼気取りの作家の売名的な“吹き上がり”に過ぎず、これをきっかけに生命の尊厳や人間とペットの関わりについて考察するだけの値打ちはないものである。


以上、「子猫殺し作家から間合いを取る」にはどうしたらよいか、というお話でした。



ああ長かった。


でもなんとなく....

「またつまらぬものを斬ってしまった」(石川五ェ門ルパン三世

という気もしないではないなぁ。orz