9/18 入間川正美@プロトシアター


恒例の、入間川氏の3日連続ソロ、今年は最終日しか行けなかったのだが、これがまた素晴らしい内容だった。


セロの即興もしくは非越境的独奏 入間川正美 (VCL) SOLO
http://www.realdoor.com/iru/
http://www.realdoor.com/iru/irusworks/works.html


再掲するが入間川氏については、web-criの野々村氏によるレビューが詳しい。
("Brief Report" の "04/09/25")
http://www.web-cri.com/




開演前の入間川氏のチェロ。

前半

  1. アルコ主体の演奏
  2. ピチカート主体の演奏
  3. アルコ主体:極めてノイジーでフリーキー

後半

  1. アルコ主体の演奏
  2. 左手のハンマリングのみの演奏
  3. 木の弓に持ち替えての演奏
  4. 右手に弓2本持って演奏
  5. 再び弓1本:オリエンタルな印象のアルペジオ


入間川氏のチェロは、弓で弾くときもピチカートのときも、メインで奏でているラインの他に、常に開放弦のどこかが鳴っている。これが演奏に、不穏でただならぬ気配を加え、異様な緊張感を醸し出すというのは先日の日記にも記したとおり。
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20050911#p1

この日は珍しく、弓を強く押し付けて、ブリッジが壊れるんじゃないかというようなフリーキーな音を出したり、弓2本で弦全体を覆うようにして全ての弦の音を出したりする演奏が見られた。打ち上げのとき「ちょっと凶暴になっちゃった」とか形容してらしたが。


だがその“凶暴さ”は、決して“押しの強さ”として発露することはない。むしろ“引き”だと思う。


モダン・ジャズやフリー・ジャズは、現代アートに例える場合、よくジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングが引き合いに出されるが、入間川氏の“凶暴さ”は、ああいうポロックの絵画やフリージャズにあるような“過剰さによって現実を侵犯していく”というような演奏ではなかった。もし例えるなら;

ルチオ・フォンタナとか、
http://medehome.com/appreciation/Fontan01.html
版画に転向してからの李禹煥とか、
http://www.yma.city.yokohama.jp/exhibition/2005/special/03_leeufan/
そんな感じだ。


入間川氏は、近来まれに見る非常に厳しい表現を追求しているアーティストだ。その厳しさは、峻烈さ、と形容してもいい。


特殊奏法や楽器の改変(改造・プリペアなど)を使わずに、通常のチェロ演奏の奏法の中でどこまでできるかを追求するかのような、自ら退路を断ったような逃げ場のない状況での演奏。非常に緊張感が高く、その緊張感が終始途切れることなく持続した。これは驚くべきことだ。凄ぇもん観た・聴いたと正直思った。


3日間通えば良かった〜(後悔 orz)


思えば、ノンイディオマティックないわゆるフリー・インプロヴィゼーションの演奏には、常に「ノンイディオムつったって弾いた傍からイディオムになったっちゃうんじゃないの?」という問題提起や批判というものが昔からあった。


たとえば、大友良英「JAMJAM日記」より。
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/diary/diary-kiku11.html

ベイリーが考えたノンイディオムという概念は、確かに音楽の、即興演奏の可能性を提示し、その後に多大な影響を及ぼしたけれども、ノンイディオムな演奏は、演奏されてしまった時点で次のイディオムを生むという循環を生んでしまった。聴き手が常に何かを認識してしまう以上、ノンイディオムであり続けること、言い換えるなら無垢な状態でい続けることは不可能だ。ベイリーが『インプロヴィゼーション』を書いた70年代とは異なり、今や、ベイリー等が初めた即興演奏すらフリー・インプロヴィゼーションという名のイディオマティック・インプロヴィゼーションになっている…と言っても間違いではないだろう。


こういう認識が、フリー・インプロへの問題提起というか批判の一般的なものだろう。これには、俺も原則ほぼ賛成だ。「フリー・インプロヴィゼーションという名のイディオマティック・インプロヴィゼーション」や「イディオムとの関係性、アーカイヴへの参照系」の罠に陥らずに、なおかつその罠から常に逃れつつ音楽表現を続けるというのはなかなか難しいとこで、滅多にあるものじゃない、と俺も思う。


だが。


こうも思うのだ。「滅多にない」ということは、「必ず例外はある」ことを保証していると。


ちょいと脱線するが、人は音楽に限らず人生色々な局面で「そんなものは滅多にあるもんじゃ無いだろ」というセリフに直面するもんだ、とくに年長者からの説教として(笑)。しかし「滅多にない」というコトバは、裏返せば「必ずある」ということでもある。ホントに「無い」なら「滅多に」という副詞が付くことは有り得ないからだ。


だから今後、友人やら先輩やら上司やらが「そんなの滅多にない」というコトバを弄して貴方の気を挫こうとしてきたら、その人はそのコトバを以って「必ずある」という事実を強化してくれてるのだと思えばよい。(半分以上、自分に言ってるわけですが・笑)


閑話休題


「今や、ベイリー等が初めた即興演奏すらフリー・インプロヴィゼーションという名のイディオマティック・インプロヴィゼーションになっている」「アーカイヴへの参照」確かにそうだと思う。俺も原則賛成だ。だが、事実として、少数ながら例外はいるのだ。千野秀一氏や今井和雄氏や山内桂氏は、その例外に当たるアーティストだし、もちろん入間川氏もそうだ。


彼らは、音楽を続けていく中で“纏わりついてきてしまうもの”を常に振り捨てて、演奏の1シークエンスごとに音楽を刷新していく。


彼らの出す音はまるで、雨に当たった蓮の葉が決して水滴を身に纏わないように、または一仕事終えた日本料理の板前の柳葉包丁に一点の曇りもないように、常にヴィヴィッドでフレッシュだ。


この日の入間川氏の演奏も、まさにそのような演奏、フリー・インプロヴィゼーションの真髄に迫るものだった。


いやぁ、いいもん聴かしてもらいました。録音は完了しているもののリリースがちょっと難航してるらしいセカンドアルバムが、できるだけ早く完成することをお祈り申し上げる。