大友良英とは何か・ONJOとは何か

そして、大友良英というアーティストのユニークさも、ちょうどこの“もんじゃ的”とでもいうべきところにあると思うのだ、アーティストとしてのスタンスが。


ということで今回は、タイトルどおり、大友氏とは何かそしてONJOとは何か、というお話。


大友氏はその今や決して短くないキャリアの中で、実は、常にシーンの傍流というか、マージナルな位置にいたアーティストだった。

  • ターンテーブルを使ってもいわゆるDJではない。
  • 爆音ノイズを轟かせても、日本のいわゆるノイジャンに連なるわけではない。
  • いわゆる日本のフリージャズ(中央線系とかいわれる)シーンにいたことはないのではないかと思う。
  • ジョン・ゾーン人脈のいわゆるNYダウンタウンシーンのミュージシャンとは数多く競演してるけど、その一派ではない。
  • 映画音楽を多く手がけているけどいわゆるスコア・サントラの作曲家ではない。
  • ジャズの捉え直しといっても、ドルフィーとコールマン。

この大友氏の、多彩だが中核を欠いたような活動のあり様は、ちょうど、もんじゃの“土手”に例えることができる。こんな感じ。Windowsの“ペイント”で思いつくまま適当に2・3分で描いたのでヒドイ絵だ我ながら(笑)

土手のあっちこっちに、いろんなジャンルの音楽や演奏スタイルが緩くつながりながらまぜこぜになっているイメージ。音楽や他民族国家の比喩としてよく“坩堝”とか“サラダボウル”とかいう言葉が使われるが、大友氏の場合は、この“もんじゃの土手”みたいなイメージのほうがふさわしい気がするんだけど、どうかな。普通なら相容れないはずのものがゆるく混ざり合ってる感じと、中心がなくて周縁だけがあるみたいな感じ。


そして大友氏は、この“土手の両岸”つまり表現の両極を振り子のように揺れ動くのを、常に意識して行っているアーティストだ。*1例えばFilamentみたいなミニマルの極地の活動の一方には、必ずAnsamble Cathodeみたいなエクストリームな表現が控えているという具合に。*2


では、大友氏にとってONJOとは何か。


それはもんじゃの“土手崩し”だと思うのだ。こんな感じ。周りにある色んなものを一気に真ん中に崩れこませるイメージ。

もんじゃを食べるとき、あの土手崩しは一つのクライマックスである。一気に崩してまぜ合わせ、「ジャーーーッ!」と炒めるときの高揚感。「ワーイ、それーーっ!」みたいなワクワクした気持ち。ONJO@森下で感じた一種祝祭的な雰囲気は、あの演奏が凄ぇ美味いもんじゃの、怒涛の土手崩しであったからに他ならない。


………。


という風に、大友氏の音楽を「もんじゃモデル」(笑)で考えてみると、その一方で、“ジャズ”という音楽の姿が、また新たな観点から浮かび上がって来るような気もするのだ。


つまり、大友氏の音楽がもんじゃだとすれば、いわゆるモダンジャズは、“お好み焼き”なのではないか。


ジャズの見事な演奏を聴いた後で感じるのは、その独特の“腹持ちの良さ”だ。ずっしりと腹に溜まって、余韻を長く残すみたいな。“耳の満腹中枢”が満足する、みたいな。ジャズ系のライブのレビューで高評価なとき、“もうお腹一杯”という表現に出会うことはないか。こういうことを書きたくなる気持ちはよく分かる。ジャズを聴く快楽のひとつにこの満腹感というのがあるし、それには抗い難い魅力があるとも思う。そういえば大阪には名前もずばりモダン焼きってのがあるしな。


面白いのは、ネットでちょっとONJOや大友氏の活動のレビューを検索してみると、あんまり肯定的じゃなかったり、評価が芳しくなかったりするのは、ジャズのプロパーなリスナーというかいわゆるジャズヲヤジのブログだったりレビューだったりするところだ。


これは、ちょうど、お好み焼き大好きで地元の味に強い思い入れのある大阪人や広島人が、東京でもんじゃ食べて、比較対象物が過去に自分の食べたお好み焼きの記憶しかないから、ついつい“こんなもの食い物じゃない”とか“こんなもん聴いてたらホンモノの良さはわからない”とか“こんなもんばっか食ってるからダメなんだ”等という類の言説を弄してしまうのと相通じるものがある、という仮説がなりたたないかな。


こういう風に考えてみると、もんじゃとお好み焼きは、けっこう楽しみかたの“ポイント”は違うものなのかもしれないね。俺はできれば、お好み焼き大好きのおじさんにも、まず悪口ありきではなしに、もんじゃの楽しみ方に触れてほしいものだと思っているのだけど。若い世代の別に音楽マニアというわけじゃないノンケのリスナーが、ネットでこれだけ高評価しているというのは、単純に「もんじゃって初めて食べたけど、なにこれ、美味しい、面白ーーい!」といっているのだと思うのだけどね。


ということを、もんじゃ食べながらつらつらと考えていたのだけど、どうかなぁ。大友氏は自分なりのジャズ/フリージャズの捉えなおしをしてて、それを凄く興味深いと思って受け取ったのだから、今度は俺なりのジャズの捉えなおしをしてみるのがリスナーとしての仁義かな、なーんてね。いやそんなに大袈裟に考えていないけどさ。

*1:それはちょうど、北野武がアート系映画監督としての姿とテレビタレントとしてのビートたけしを明らかに意識して演じ分けている様子に通じるところを感じさせる。

*2:そこいら辺は、例えば杉本拓氏みたいな、ひとつの表現を突き詰めるタイプとは対照的だ。そういえば、脱線するけど、最近の杉本氏を観ると、なんか剣術の流派で禅に染まっていった結果あらゆる技を捨ててしまって、そのまま流派としては消えていっちゃう、みたいなあやうさを感じるのだが。