ピアノ:この厄介な楽器

そういえば、先日のフレデリック・ブロンディの演奏を聴いて思い出した事をメモしておく
(若干「暴言・妄言モード」なので、あまりマジメに取らないで下さい(笑))


俺は、過去の日記でこんなことを書いたことがある。


http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20050120/p1

つくづく思うのだが、ピアノという楽器は、なかなか手強いというか、厄介な楽器だ。あの楽器は、誰がどう弾いても、演奏の場を仕切る・牛耳る・支配するという感じに、どうしてもなってしまうようなところがある。

これは、個別の演奏家の問題でも「楽器別人間学」(ピアニストという人種はこういうタイプ云々)の問題でもなく、むしろピアノという楽器が、人間にそういう演奏をなさしめる要素を内包しているのではないか。いわば「ピアノのアフォーダンス」。ピアノの音は、どんな演奏をしようともその場を支配せずにはいられない、という呪縛。

http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20051114/p1

ピアノのアフォーダンスとは何か。それは、演奏者に対して、極めて広い音域とピアニシモからフォルテシモにわたる大きなダイナミクスで弾くことを“アフォード”しているんだと思う。ピアノという18世紀に確立した当時の“ハイテク楽器”は、そのダイナミックレンジと音量と音域を以って、世界の音楽を“征する”ことになった。それは、ピアノという楽器がそのようなアフォーダンスを備えていたからだと思うのだ。

アフォーダンスとは:
http://d.hatena.ne.jp/keyword/アフォーダンス
google:アフォーダンス


まぁそんなわけで、ピアノっつうのは“表現者”たるピアニストにとってけっこう手強く厄介な楽器だと俺は思っているのだ。特に、現代音楽/実験音楽/フリー・インプロヴィゼーション演奏家にとっては。


考えを進めて、では、そもそもピアノという楽器がこのようなアフォーダンスを内包するに至った背景や経緯はなんなのだろうかというのを考えてみる。


ピアノの開発、そして全世界への拡散と浸透。世界の音楽を“征する”ことになった経緯。


それはぶっちゃけ、ヨーロッパ列強の世界進出・植民地支配とともにあったのだと思われる。


Wikipediaから(すいません右端の日本語がリンクしないのでURLごとコピペして下さい):
http://ja.wikipedia.org/wiki/ピアノ
http://ja.wikipedia.org/wiki/植民地主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス植民地帝国
http://ja.wikipedia.org/wiki/イギリス帝国
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポルトガル海上帝国

1700頃	伊メディチ家の楽器職人クリストフォリ、ピアノを発明
1740	オーストリア継承戦争(〜1748)
1745頃   独ザクセンのオルガン職人ジルバーマン、ピアノを発明
1747	J.S.バッハ、フリードリヒ大王の提示したテーマに基づき
          ピアノで即興演奏(「音楽の捧げ物」)
1756	七年戦争(〜1763)
     モーツアルト生誕
1770頃	英国の楽器職人バッカース、いわゆるグランドピアノを開発
1770	ベートーヴェン生誕
1803	ナポレオン戦争(〜1815)の勝利で英国が世界の海の制海権を
          掌握し「大英帝国」へ
1828	シーボルト、日本に初めてピアノを持ち込む
     ベーゼンドルファー創業
1836   スタインウェイ創業
1840   アヘン戦争(〜1842)
1853   ベヒシュタイン創業

(↑文字大きい表示だとズレるかも...)

シーボルトのピアノ1820年代イギリス製) - 山口県のサイト
http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/backnum/03_autumn/yeiyo_kokoro.html


現代のピアノの原型となる楽器が開発されたのが1700年ごろ、極東の島国であるわが国に最初にピアノが持ち込まれたのが1828年。約130年かかってこの楽器は地球を1周したことになる。その歴史はヨーロッパ列強の植民地支配の拡充とピッタリと重なっている。

あの楽器は、誰がどう弾いても、演奏の場を仕切る・牛耳る・支配するという感じに、どうしてもなってしまうようなところがある。

ピアノの音は、どんな演奏をしようともその場を支配せずにはいられない、という呪縛。


それは、この楽器が背負う宿業(しゅくごう)のようなものかも知れない。


もうひとつ。ピアノという楽器が世界中の音楽に普及させたものに、平均律という調律方法がある。


平均律(これもURLごとコピペして下さい):
http://ja.wikipedia.org/wiki/平均律

平均律の実用的なメリットについて、ツァルリーノGioseffo Zarlino(1517-1590)は《音楽的補足 Sopplimenti musicali》(1588)の中で、シシリーの聖マルティノ修道院長ジロラモ・ロセッリの言葉として以下のように述べている。

「ディアパソンあるいはオクターブを12の均等な部分に分割する方法によって・・・歌手、楽器奏者、作曲家が以下のようなことが可能になるので、すべての困難が軽減される・・・すなわち12の音のうち、どこからでも『ドレミファソラ』と歌ったり楽器を奏したりできるようになり、すべての音を経過することができる(彼ロセッリはこれを円環音楽と呼ぶ)。このためにすべての楽器が調律を維持でき、ユニゾンで演奏でき、そして彼によればオルガンの音が高すぎることも、低すぎることもなくなる」(Lindley 1980)


ピアノという“ハイテク機器”がもたらした“文化侵略度”の強さは、他のどのテクノロジー蒸気機関・自動車・飛行機・映画・テレビ・パソコンetc――の影響を遥かに凌駕するものだ。なんつったってセカイに対する人間の思考そのものを変容させたんだからね。


古来、音階(音律)というものは、宇宙/世界の秩序の象徴だった。ピタゴラスは、その名を冠した“ピタゴラス音律”という調律があるくらいで、「アルケー(事物の根源)は数である」と唱えた。あと、グルジェフとかロバート・フラッドをググれば、ヨーロッパの神秘主義とか錬金術の人々がいかに音律を宇宙の神秘に結び付けて考えていたかが良く分かる。ロバート・フラッドの「聖なる一弦琴(The Divine Monochord)」なんてその最たるものだろう。


平均律により、移調が容易になり、いかなる音も互換可能になったこと。そして、ピアノの水平に伸びた長い鍵盤によって、本来垂直的に捉えられてきた音程の高低やインターバルが俯瞰的・水平的に把握可能となったこと。それは、音律から聖性を剥奪することをもたらしたと言えるのではないか。


いわば“神殺しの楽器”としてのピアノ。


プリペアド・ピアノは、元々ケージがバレエの音楽を委嘱されてパーカッションによる曲を構想したものの舞台の袖にパーカッションを広げるスペースが無かったからという苦肉の策から考案されたものではあるが、結果的に、ピアノという楽器が背負う“業(ごう)”からの解放をもたらした。


フレデリック・ブロンディの演奏を聴いた後、つらつらとそんなことを考える今日この頃である。


だがしかし。


ブロンディ氏くらいレベルの高い音楽家がピリペアド・ピアノをあれだけ高度に弾きこなしてしまうと、「もう他の楽器要らないじゃん」という気がしてしまうのも事実(汗)。もう何でもできちゃうじゃん、って。それから、倍音やバズ(ビビリ)音が非常に豊かになった分、他の楽器の倍音を殺しちゃうというか、齋藤さんが同時に叩いたり擦ったりしてるとそのノイズ成分が塊になっちゃって聴こえる場面もあって。


こりゃまたジレンマというかパラドックスというか。ほんにピアノという楽器は難儀で手強い代物だよなぁ、と改めて思ったりするのである。