ヴァンデルヴァイザー楽派とは何か (3)

えーと、ひとまずコレで完結の予定。

ヴァンデルヴァイザー楽派の人々がやっていることは、音楽というメディア(コンサート、CD、楽譜etc)の形をとりつつ、音楽ではないもの・ことを指し示そうとしているのではないかと思われる、ということだ。

という昨日の日記の続き。


昨日の日記はけっこうフザケたこと書いてるように見えるかも知れないけど、俺、至極マジメなんだけどね。


昨日も書いたけど、ヴァンデルヴァイザー楽派の作品には「楽器はなんでもいい」とか「弾いても弾かなくてもいい」という“指示”が多い。


うろ覚えだけど例えばこんな具合(間違ってるのも含まれてると思う)。

  • 使用楽器:減衰音の出る楽器(ギター、ハープ等)と持続音の出る楽器(管楽器、擦弦楽器)。楽器の種類は問わない。
  • 演奏者と聴衆:演奏者はその場に佇み、動かない
  • 荒海や/佐渡に横たふ/天の川(←コレじゃなかったと思うけどなんか江戸時代の俳句を英訳したもの)
  • ①水の落下②照明用ガス が与えられたとせよ

これは、「そこで鳴る音」を「鑑賞」することに主眼が置かれていないからではないか?


再びウドン屋モデル(?)に戻って例えてみると、こういうことではないか。

  • 用意するもの:外食の飲食店。蓋を回して振り掛けるタイプの缶入り唐辛子と、生卵。店の種類は問わない。

「ウドン」を「味わう」ことに主眼が置かれてるのではなくて、実は唐辛子の缶を回させたり生卵を割らせたりすることが目的なので、唐辛子の缶と生卵が出るなら店の種類は問わない。ウドン屋でなくてもソバ屋や牛丼屋でもオッケー。


ただし「お店に行ってカウンターに座る(立ち喰いだったら立つ)」ことは厳密に守らなければならない。なぜなら「店に入って、カウンターに座って、唐辛子の缶回して、食わずに帰る」って風にしてこそ、その“凄く変な体験”が際立つからだ。


ヴァンデルヴァイザー楽派の作品も、コンサートという場で、演奏者と観客として対峙し、紙でできた譜面に従って演奏することに厳密にこだわっているのが多い。これも、そういう伝統的なフォーマットを取っているからこそ“何とも形容しがたい奇妙な体験”が強調されるのである。


そろそろ、ウドンだの何だのとふざけてないで、結論に移ろう。


俺は、ヴァンデルヴァイザー楽派の作品は、「コンサート」や「曲」に「擬態」したコンセプチュアル・アートである、と解釈している。


擬態とは、もちろん、蛾とかの昆虫が、樹木の表皮そっくりの色と模様になって周囲に溶け込んでしまう、あれのことだ。


虫が樹木に擬態できるのは、樹木の表皮が何万年も変わらずに同じ模様をしているからこそである。もし、日替わりや週替わりで樹皮の肌理が変わってしまう樹木があったとしたら、虫さんはそんな木に擬態することはできないだろう。


ヴァンデルヴァイザー楽派にとって非常に保守的な“演奏会”の形式に物凄くこだわっているのも同じだ。ヨーロッパで過去数百年来続いているからこそ、“擬態”の“依り代(よりしろ)”としてふさわしいのである。


では、ヴァンデルヴァイザー楽派の作品や杉本拓・宇波拓の作品が指し示そうとしてるコンセプトとは何だろうか。


それは、ライヴに行って自分で体験するしかない


というわけで、11/10(金)に千駄ヶ谷ループラインのコンサートに、みんな行ってみよう。