ソリッド/アトラクティヴ試論:(寄り道)音楽批評をなりたたせるもの2
(上記エントリーの続き)
これだよ俺の求めているものは。
いや、由布島行ってみたいのはヤマヤマなんだけどさ(笑)、ここで言いたいのは「癒しと寛ぎの島」云々という話ではなく。
「批評」とは、海に隔てられてるように見える「いま、ここ」と、向こう側の「かつての、あそこ」をつなぐ「場所や道や手段」を探すことなのではないか、というお話。
みんなが岸辺で海を見ながら「これじゃあ、舟探さねぇと向こうには渡れねぇな」とため息ついてるときに、島をぐるっと走って回って、あちこち泳いだり潜ったりして、「いや、こっから見ると確かに海深くて渡れねぇけど、あっち側行けば、引き潮のとき海浅くなってんじゃね?」と言えるかどうか。それが批評なのではないか。
批評という営為は「みんな渡れないと思ってるけど、探せば渡れるとこあるんじゃないか。コッチはどうだろ。またはコッチは?」と探すこと。
批評のコトバとは「お〜い、こっち来れば渡れそうだぞ〜」とみんなに伝えること。
そして、批評のメディアとは、みんなで乗って向こう岸に渡る牛車。
つまり。
隔たりを埋める思考。
それが批評というものだろう。
それでは、1970年代、ベイリーが「ソリッドなもの」であった頃の音楽体験と、「2006年の今の俺」のあいだの隔たりを、埋める・縮めるための思考とは何か。「ソリッドなベイリー体験」という「向こう岸」に渡るための「浅瀬」はどこにあるのか。そしてその「向こう岸」の先には何が見えてくるのか。
そういうことを、あんまりシャッチョコ張らずに、また“闘争”っぽくなく(笑)マターリと考えてみたいものだなぁ、と思う今日この頃。
「牛に牽かれて表現の彼岸に行くさぁ」「ウモ〜」こんな感じで。
http://www.yaeyama.co.jp/iriomote_p5.htm