雑感:【菜の花忌】司馬遼太郎を「司馬さん」と呼ぶ文春オヤヂはキモい

(これもどうしようかと悩んだんだけど、書いちゃえ。2/12で没後10周年だし)


文芸春秋」や文春出身の作家/ライターなんかが、司馬遼太郎を「司馬さん」と呼ぶとき、言い知れぬ違和感とキモチワルサを感じる。あれは何なのだろうというお話。
(ちなみに司馬遼太郎への批判や悪口では全くないですよん)


↓例えばこういうの。

文藝春秋増刊 司馬遼太郎ふたたび
http://www.bunshun.co.jp/mag/extra/shiba2/
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=08249968

  • 『この国のかたち』司馬さんから編集長への手紙
  • 特集・司馬さんが伝えたかったこと

こういう「司馬さん」の用法がなんとも気持ち悪い。なんでだろう。


ググッたり(google:司馬遼太郎 司馬さん)、テクノラティで検索してみると
http://www.technorati.jp/search/search.html?callCode=2181.2847&queryMode=main&query=%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E3%81%95%E3%82%93&language=ja

人が司馬遼太郎を「司馬さん」と呼ぶとき、以下の3種類に分類できるみたいだ。

  1. あくまで司馬遼の小説ファン。
  2. 地方都市で、地元の歴史に愛着のある人や在野の研究家が「司馬遼太郎が愛したわが町」という切り口で語るケース。
  3. 司馬作品をダシにして、返す刀で世相を斬る、みたいな「時事放談」型。

1、2に関しては、小説家のファンとして極めて健全だと思う。別に違和感は感じない*1。俺がキモいと感じるのは、どうも3番の人みたいだ。


ネットで検索してみたり雑誌や書籍で読んでみると、3番の人たちの決まり文句がある。それは:

  • 司馬さんが生きておられたらどう言われただろう。
  • 〜〜〜(最近の事件を挙げて)を見たら、司馬さんなら何と言ったろう。

こういう人たちは確かに司馬遼太郎が好きなようだが、それ以上に「司馬さんを尊敬してるオレ」が好きみたいだ。そして司馬遼太郎を引き合いに出してモノを語るとき、どうも「オレは分かってる」ということが言いたいみたい。何が?というともちろん“歴史”とか“司馬作品”とかが。


んで、そういう人の文章には更に、行間から伝わってくる言葉というか、“喉元まで出掛かってる”一言があるようだ。それは:


オレはお前らとは違うから


つまり、司馬遼太郎を「司馬さん」と呼んで時事放談をしてる人というのは、要は「オレはお前らと違って司馬さんを分かってるから」ということが言いたいようなのである。


例えばこういう人たちとか。
http://gendai.net/?m=view&g=syakai&c=020&no=24388
http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20040521


ご両人とも、そのオピニオンへの賛成・反対以前に、その品性の下劣さにヘキエキするようなお人柄なのが興味深い。ご自分が司馬作品で描かれるような人物からは最も遠い存在であることに気づいていないらしい。こんな御仁に司馬さん呼ばわりされている司馬遼も気の毒だ。それこそ「司馬さんが読んだら何と思うだろう。」灰皿をぶつけられるんじゃないか。


でもねぇ。


こういうのって、司馬遼太郎に限らず、あちこちにあることだよね。音楽業界では、例えば、細野晴臣氏を「細野さん」と呼ぶ(しかもフラットなアクセントで。つまり「サザエさん」と同じアクセントではなく「アミノ酸」と同じアクセントで)と、「関係者っぽい」みたいな、ヘンな取り巻き意識が昔からあるよね。


それに司馬遼太郎だけでなく、例えば:

の周辺も、キナ臭いような気がする(笑)。「死んだ後から取り巻き気取り」のオヤヂやヂヂイには気をつけろ!


なんというか、やっぱり、自分にとってちょっと権威あるようにみえる存在の威を借りて自分の存在にゲタ履かす、というのは人間にとって抗い難い誘惑なのかも知れないね。以って他山の石となすべし、ということだと思う。


「そういうお前が一番偉そうだろ!」 へい、ごもっともー(自爆)

*1:2に関しては、今回の論考とは別に思うところがあるけど。つまり、2の人々にとって司馬遼太郎って、天皇陛下、ぶっちゃけ言うと昭和天皇を補完する存在なのね。この人たちにとって「街道をゆく」って、まさに“行幸”なの。司馬遼太郎に“承認”されることに凄い意義があるみたいな。それはそれで非常に興味深い(天皇制への賛成・反対とは別に)。“この国のかたち”をなすためには“天皇的なもの”が必要だと感じる人が必ずいて、そしてその数は驚くほど多い、ということだと思う。