シュトックハウゼン@天王洲アートスフィア


シュトックハウゼン《リヒト=ビルダー(光=イメージ)》
http://www.arion-edo.org/tsf/index.jsp
http://www.arion-edo.org/tsf/2005/program/concert.jsp?year=2005&lang=ja&concertId=m02


はい。行ってまいりました.......。


ビックリしたのが客層、若いはてなおとなり日記やキーワードで言及している人を見て、随分と若い人たちが関心持ったり前売り買ったりしてるんだなぁ、と思ってはいたものの、会場見てみるとほんとに年齢層若くてビックリ。20代くらいの観客(しかもカポー率*1多し)のほうが多数派。テクノや音響ものを聴いてる人たちなのかな。楽壇人や現代音楽ヲタや「むかし、万博で見ました」という人々はむしろ少数派だったのではないか。


でもアンリやグラスやライヒだったらテクノとかのつながりは分かるけど、なぜシュトックハウゼンにこれほど集客が?“ゴッドファーザー・オブ・電子音楽*2つうことでリスペクトされてて一度見ておくか、みたいなかんじなのかなぁ。


ステージには、天井から4台のスピーカーが吊リ下がっている他は全く舞台装置は無し。客席中央後寄りのPA卓には、ミキサーと、サンプリング音源のユニットらしきのが2台。開演前に既に巨匠が鎮座ましましてフェーダーのチェックなどを!俺の席は巨匠の5列くらい後方。ミキサーには譜面が立てかけてあるがさすがに詳細は判読できず。

  1. リヒト=ゲルダー(光=イメージ)
  2. 少年の歌
  3. テレムジー

1.リヒト=ゲルダー(光=イメージ)

いやぁ、ある程度覚悟はしていたのだが……。予想以上にトンデモなかったな。 
_| ̄|○


演奏者(ステージ向かって左から)

  • トランペット+ミュート+リングモジュレータ
  • テノール歌手
  • フルート+リングモジュレータ
  • バセットホルン
  • ステージ袖にキーボード

暗転後、ステージに光沢のあるオレンジ・グリーン・青・紫の色鮮やかな衣装*3を着たプレイヤーが登場。なんか、スタートレック(60年代のテレビ版)に出てくる宇宙人、またはオウム真理教のロシア支部みたいな。フルートとバセットホルンのおねえさんの衣装には深めのスリット。トランペットのおじさんは腰のベルトに銀色の金属球を数個取り付けていて、何かと思っていたら、演奏が進むにつれ、それぞれ効果の異なるトランペット用ミュートであることが判明。笑っていいのかどうか躊躇ってるうちに開演。


基本的に、4人のプレイヤーがクルクル回ったりポーズをとったりしながら断片的なフレーズを演奏し、テノールの人がシュプレッヒゲザング風に「神をたたえる」歌を歌い、トランペットとフルートに時折りリングモジュレータで変調がかかり、バックに薄くシンセが鳴る、という曲。


スタトレとかロジャー・コーマン制作のBC級SF映画の、意味不明な宇宙人の宗教典礼みたいな印象。しかも無駄に長いんだこれが。客席に徐々にウンザリした空気というか、うすた京介さくらももこのマンガに出てくる「額に影を落として脱力してる人たち」みたいな虚脱感が漂い始める。


俺、途中で飽きたから眼をつぶって音だけ聴いてみたけど、絵を除いた曲調自体も平板で単調、メリハリがなく、つまらない。平板さや単調さが、ミニマルミュージックやテクノみたいな執拗な繰り返しで向こう側に突き抜けちゃえみたいな意識的なものじゃなくて、ただ単純に退屈なの。


パンフレットでは同志社大の清水穣氏が巨匠のトンデモな面を擁護する文章*4を寄せていらっしゃるが……。やっぱダメなもんはダメだと思う。


ただ、巨匠はどうやら直球勝負で“本気モード”全開、つまり「本気で神をたたえているらしい」ということは、少なくとも観客に伝わってきた。だから、音楽には確かに作曲者の意思を伝えるチカラというものはあるもんなんだ、ということを改めて認識した、聴いててどうかはともかく(笑)。


昔、たしかid:chimさんのサイト「chim chim cheree」の旧掲示板で、シュトックハウゼンの「ヘリコプター協奏曲」*5の話題になったときに、どなたかが「本人が大真面目にやればやるほど、傍から見てお笑いに見えてしまうのがシュトックハウゼンの音楽」という書き込みをされていたが、もう、至言、それにつきると思った。


休憩を挟んでの後半は、巨匠の代表作2作を4チャンネルのスピーカーで再生して聴くというプログラム。


ステージでプレイヤーが演奏するのではない。会場全体が暗転し、ステージ上には壁の上方に満月を思わせるスポットライトが1つ当たっているだけ。PA卓から巨匠が出音をコントロールしていた模様。


2. 少年の歌

朗読する少年の声と電子音の諸要素をセリー化し、精密に構成されたこの作品では、音声学と情報理論にヒントを得て、音と言葉の新たな統合が試みられている。
(「東京の夏」カタログ、塚田れい子氏の解説より)

いきなり、客席右手中央部の空中に、電子変調されたボーイソプラノの声がかなりの大音量で音像を結んだのでビビッた。巨匠もやっぱり最初は音デカ過ぎたと思ったのか、その後はやや控えめになった気がする。


会場内を立体的な音像を結んで乱舞するボーイソプラノと電子音。楽しげな男の子の歌声が目の前(見えはしないけど)の空中に現れ、泡立つような電子音に変形し、急に「ピボッ」という音を立てて消え、こんどは会場の反対側に現れる。少年の声は、複数の歌の断片となって会場をピョンピョンと飛び回り、ソロから融合してコーラスになり、また離れ、水音や鈴の音を思わせる涼しげな電子音にモーフィングして、消える。


まるで画像のないCG。ハリウッドのSF・ファンタジーものの映画で妖精や幽霊が目まぐるしく現れたり消えたりしながら飛び交うシーンを連想させる。これが1950年代に作られていたとは到底信じられない。十数分という時間は短すぎる、ずっと聴いていたいという気持ちにさせる、至福のとき。はっきり言ってグレイトである。これは若い世代の観客にも十二分にアピールしたのではないか。いやぁ、よかったなぁ。


3. テレムジー
こちらは、ラジオのチューニングのようなノイズからスタート。

1966年の来日の際、東京・NHK電子音楽スタジオで制作された、世界各地の音楽を素材とし、電子的に変形して構成した5チャンネル(当初5チャンネルで制作されたが今回は4チャンネルで上演)のテープ作品である。素材リストは、雅楽、バリ島、南サハラ、スペインの村祭り、お水取り、中国の名人芸、高野山、ヴェトナムの奥地、ハンガリー薬師寺、その他。
(同上)

コンセプトは極めて明瞭で分かりやすい。ただ、やはりどうやらセリエリズムで厳密に構成されているらしく、素材としての音はまるで何日も煮込んだカレーやシチューのようになっていて、一聴して「あ、これはアノ音だ」と識別できることはむしろ少ない。つまり「音でできた観光地めぐり」みたいなものにはなっていない。いわば「糖分ゼロのホルガー・シューカイ*6」。


音の質感としては、「少年の歌」よりも倍音が多かったり金属系の音がメインだったりと、全体にザラザラとした感触の比較的ノイジーな音使いが耳につく。基本的には、変電所のダイナモあるいは冬の遠雷のような低いドローン音や、ジージーいう蝉時雨のような電子音を通奏低音として、その上に様々な民族音楽の断片や金属系パーカッションや何かの逆回転音なんかが、流れるように移り変わっていく、という構成。まるで自動車のフロントガラスに映る夜景が変形しながら流れすぎていくように。「少年の歌」が陽ならばこちらは陰、あちらがアッパー系ならこちらはダウナー系、みたいな印象。


という2作品だったのだが、決して俗っぽいスペクタクルに堕すことなく、飽くまでハイブロウで美しい音楽になっているところが素晴らしい。とくにひとつひとつの音響の、宝石のような美しさは特筆もの。選び抜かれ磨き込まれた、よりすぐりの音響。これがセリーを突き詰めた成果というものか。


終演後、PA卓からステージに上がってスタンディングオベーションに答えるシュトックハウゼン氏、いったんステージから降りて席に戻りかけるが鳴り止まない拍手にステージに戻っる、というのを10回くらい繰り返す。最初の数回は巨匠のユーモアとして和やかで温かな雰囲気に包まれたが、最後のほうは周囲から「まだやんのかよ」という囁きが(笑)。周囲の思いに無頓着にとにかく半端はしないという巨匠のポリシー(?)は、作品だけでなくこういうところにも見事に発揮されていたようだ。


というわけで、前半と後半でこんなに評価が違うコンサートも珍しいのだが(笑)。……


ふと、こんなことを思う。


思えば、ヨーロッパで近代科学が芽生えたきっかけは、修道士や学者達の「セカイの有様をもっと細かく観て、主の“みわざ”の素晴らしさを知りたい」という動機だった。そういうモチベーションから顕微鏡や望遠鏡が発明され、医学や天文学が発展していったわけだ。


シュトックハウゼン氏にとってのセリエリズムとは、まさに、この顕微鏡や望遠鏡だったのだと改めて思う。神の神秘に近づくための手法としてのセリー、ツールとしてのオシレータやリングモジュレータ。


これはあくまで憶測だけれども、シュトックハウゼンの作品がセリエリズムと電子音響から大規模トンデモ音楽に変遷していった背景には、氏の神へのアプローチの変化があったのかもしれない。「主のみざわは、究明などしなくていい、ただ讃えてさえいればいい」みたいな。


そういう風に考えると、凄く辻褄があう気がする。そう考えれば、巨匠の脳内では自分の仕事は一貫して“ブレてない”ことになるし、だからあれだけ性懲りもなく飽くことなく大規模な作風を繰り返し構想できるわけだ。神をよりよく讃える道には限りがないのだろうから。そういう意味でシュトックハウゼン氏の思考と行動様式は、つくづく、ヨーロッパ人のものなのだと思うなぁ、よくも悪くも。

*1:id:nagataさん&id:defeatxxxxさんのカップルもいらしていたのかな、俺は面識ないけど。ご結婚おめでとうございます。

*2:すいません今勝手に思いついただけの称号です。たまたま、今手元にJBのCDがあったもんで。

*3:衣装デザインも巨匠がなさったらしい。その色彩センスはアルバムジャケのドローイングに一脈通ずるものを感じさせた

*4:まぁ、この文章書くのもなかなかツライ作業だったのではないかと拝察するけど(笑)

*5:弦楽四重奏の奏者それぞれが別のヘリコプターに乗って飛行しながら演奏し、それを中継でつなぐという怪作。凄く費用がかかるのであまり演奏の機会がないことが巨匠はご不満らしい(笑)。

*6:そういえば、ホルガー・シューカイはお弟子さんなんだっけ。