借景という逆説

さて、久々の日記は、京都などの庭園の造園技法である「借景」が面白いなぁ、というお話。(ちなみに「景観論」が主題ではないのであしからず。そのため直リンクは避けています)


俺は最近、仕事に疲れたり、または仕事中に無駄に待機時間が長かったりしたときは、主に京都の観光地のWebサイトをぼぉっと眺めている事が多い。


京都ってなんか楽しいところある? - ニコニコVIP2ch
http://nicovip2ch.blog44.fc2.com/blog-entry-668.html


こんなことをしている理由は、最近イロイロと疲れているので安らぐような画像を見たいとか、今の勤務地が川崎の工場/倉庫地帯で緑地に乏しいので緑を見たいとか、今年(喜ぶべきか悲しむべきか分からんが)夫婦でJRのフルムーンパスを利用できる年齢になってしまったのでどっか行きたいなぁ、などという事情があるのだが。


それはともかく。


ネットサーフ(←死語?)していて興味を惹かれたのが、庭園の造園技法である「借景」という概念だ。


google:借景
借景 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%9F%E6%99%AF

借景(しゃっけい)は、中国庭園や日本庭園における造園技法のひとつ。
庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させてダイナミックな景観を形成する手法。


天龍寺
ttp://www.rinnou.net/cont_03/10tenryu/
円通寺
ttp://www.kurashiki.co.jp/entsuji/
大河内山荘
ttp://kyotocity.cool.ne.jp/niwa/ookouchi.htm


中でも一番面白かったのが、下記の記事。


京都盆地に立地する借景式庭園の景観特性 に関する研究 - 大阪府立大学大学院 生命環境科学研究科
ttp://www.envi.osakafu-u.ac.jp/Ulpd/H15Report/Inoue.pdf
(注:PDFファイル)


借景 −視覚のマジック− - 独立行政法人森林総合研究所関西支所
ttp://www.fsm.affrc.go.jp/Old/joho-photo-41-60/042photo4.html

人が距離を知覚する要因にはいくつかありますが,地表面の情報は重要なものの一つです。借景とは,視点と視対象との間の地表面を意図的に隠すことによって遠近感を喪失させ,近景の中に幻想的な遠景を取り込む技法であると言えます。

ここに載っている「コンケイブ(凹)地形による借景の構成法」という図面が一番分かりやすくて面白い。


さて。


この「借景」、京都周辺の土地の再開発に伴って、破壊されたり損なわれたりしている所が随分あるらしい。


京都市中心部の新しい景観政策 - 都市環境デザイン会議関西ブロック
ttp://www.gakugei-pub.jp/judi/semina/s0606/index.htm#Mfu004
ttp://www.gakugei-pub.jp/judi/index.htm


さすがに行政も放置しておけなかったらしく、現在は(遅ればせながら)対策が講じられている模様(実効性のほどは不明)。


五山への眺め・円通寺の借景…京都市「眺望条例」制定へ
http://www.asahi.com/special/isan/OSK200702140035.html

条例の対象となる候補は、送り火で知られる五山への眺めや借景で知られる円通寺の庭園から見る比叡山世界遺産に登録されている下鴨神社の境内での眺めなどで、市が昨年38地点をリストアップした。清水寺金閣寺など世界遺産の周辺では、半径500メートルの区域で、屋根の角度や形状などを細かく制限。条例制定後、手続きを経て正式決定する。


(実際にはイロイロあるのだろうが)このような行政の取り組みは、原則的にはけっこうな事だと思う。


だが。


行政側による保護政策はあるべきことだとは思うが、数百年前に元々それら借景庭園を造営した庭師や僧侶にとって、このような事態は果たして名誉なことなのだろうか。


なぜなら。


借景が借景であるためには、その庭園が「背後の山野を借りている」という事実は、あくまでも(少なくとも最初に鑑賞した当初は)秘されているべきものであるはずだからだ。「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず」(世阿弥)。現代に残る著名な借景の、「借りている」ことが鑑賞者に「知れ渡っている」状況は、造園した側にとってははなはだ野暮で不名誉な事態であるに違いない。


観光客は、例えば天龍寺円通寺の庭園を観て「あぁ何て見事な借景だろう」と感想を述べる。だがその庭園が「借景である」事実は、その観光客自身が「見抜いた」ワケでもなんでもない。ガイドブックでも観光局のパンフでもWebサイトでも、はたまた庭園入り口の説明板でも何でもかまわないが、要するにどこかに「借りてます」と書いてあったから、その庭園を借景と認識できているに過ぎない。そして観光客が「ここは借景である」という事実を「事前にいつかどこかで受容した」ことは、その鑑賞にあたっては「なかったこと」にされている。ガイドブックorパンフレット(以下略)をロクに読みもしない修学旅行のバカ中学生・高校生にとって「借景」は存在しないのだ。そもそも、「見事な借景」という表現そのものが語義矛盾でもある。


しかし。


研究機関や行政が動いて「借景」を保護する取り組みをしているのは、ひとえに「そこが借景である」ことが人口に膾炙しているからに他ならない。事実、上記リンク先をいろいろ辿れば、マンションや宅地が建ってしまったり造成されてしまったりしている借景の事例が沢山あるようだし。「借景であること」が鑑賞者に自明である事態は「借景」としては不名誉かも知れないが、いまや「借景である」のが人口に膾炙していることは、借景が借景として存続する上での必須条件といえる。


つまり。


借景は、「借景であること」が周知されなければ、借景として存続できない。


借景という名の逆説


これは、凄く興味深いことだ。なぜかひどく俺のココロに引っかかる。


さて。


以下は景観論とは全く関係のない話題である。


思うに、音楽にせよ、映画にせよ、演劇にせよ、絵画その他にせよ、その作品が音楽/映画/演劇/絵画etcの「作品」として成立するには、必ず、音楽/映画/演劇/絵画etc以外の「何かから・何かを・何らかの方法で」「借りて」いるはずである。


だが、「このように借りてます」ということを、音楽/映画/演劇/絵画etcの作品「それ自体」には原則的に叙述することができない。「借りてます」という情報は、作品の「外部」にこそ存在しうるからだ。


作品の鑑賞者は、その作品が「借りている」という情報を、事前に、いつかどこかで受容しているからこそ、それを「作品」として認識することができる。そして鑑賞者が「借りている」という事実を「事前にいつかどこかで受容した」ことは、鑑賞にあたっては「なかったこと」にされている。


例えば。


美術館やデパートの美術展では、普通は入口を入るとすぐに口上書きがあり、その画家の作品を管理している財団かなにかの挨拶文があり、作家の年譜があり、続いてようやく少年期や学生時代のスケッチなんかが並ぶ偏年式の展示が始まる。「○○の時代」「○○の時代」etc....俺なんかには、財団の理事長の挨拶文なんざスミからスミまで熱心に読んで、いったい何になるというのかまったく理解できないのだが、カルチャースクールとかNHK日曜美術館』を見てきたと思しきおば様集団なんかは、えらく熱心に端から端まで全てのパネルを読んでいくのである。それこそ作品を観る時間よりもパネル読んでる時間のほうが長いんじゃないかというくらいに。ここには京都の庭園における「見事な借景」と同じ構図がある。


だからといって「財団の理事長の挨拶なんざ読まない俺」が、カルチャーおば様よりも上などということは毛頭ない。すでにその○○展に行っている「美術館で会った人」であるという時点で、俺自身もその逆説に絡め取られている。


いわゆる現代アートで、この問題をコンセプチュアルな作品にしたものに、ダニエル・ビュラン(Daniel Buren)の「かたち:絵画(Les Formes: Peinture)」の連作がある。だいぶ昔(もう12年前かよ…)のMOT東京都現代美術館)での『ポンピドー・コレクション展』で展示(?)されていた。


「展示(?)」としたのは、このシリーズが、「キャプションのパネルだけ」を掲示した作品だからだ。ビュランの絵画そのものは、展覧会の他の作品 ―クプカ、モディリアニ、ピカビア、ボナール、フォンタナ―の裏側に隠されていて見えなくされており、観客にはその作品を示すキャプションだけが見える、というしかけになっている。


Daniel Buren
http://www.danielburen.com/
Les Couleurs: Sculptures / Les Formes: Peintures
http://www.amazon.com/Couleurs-Sculptures-Formes-Peintures/dp/0919616216
ポンピドーの隠しファイル(穴吹史士)
ttp://7ten.boy.jp/aaa/html506.htm


ポンピドー・コレクション展』カタログから引用:
http://ashibi.ocnk.net/product/415

ダニエル・ビュラン(Daniel Buren)
『かたち:絵画(Les Formes: Peinture)』
(美術館の5点の作品の裏側に、8.7cmの垂直の白と黒のストライプの布)
このインスタレーションは、パリ国立近代美術館のために構想されたものであり、絵画鑑賞の場を問題とすることによって、美術館所有のコレクションに働きかけることが意図されている。(中略)
ビュランは、その存在が鑑賞者には見えないようにストライプの布を設置することを望んだ。選ばれた5点の作品のキャプションの脇に並べられた『かたち:絵画』のキャプションは、「その裏に作品がある」ことを理解させる。キャプションの表示以外に何も観る物が無いという事実は、他のいかなる作品も示すことができない事柄を理解することを促す。すなわち、眼に見えるものとして、作品を名づけ、指示することとは何なのか、そして「芸術作品が見られる場所は額縁の中である」ということを。

…まぁ、ぶっちゃけ言って、この作品がそれほど作者の意図を顕すことを「成功」しているとは言いがたいのだが(笑)、こういう「元も子もない」ことにこだわるのは、大事なことだと思う今日この頃、なのである。


音楽/映画/演劇/絵画etcの作品が、その作品が「作品」として成立するために、音楽/映画/演劇/絵画etc以外の「何かから・何かを・何らかの方法で」「借りて」いるとして、そのそれぞれの「何か」は何だろうか。空間?時間?歴史?社会?制度?政治?構造?


これの下書きをタイプしながら思い出した!いまMOTが館内を改装し終えてリニューアルオープンして(Nadiffの位置が変わっただけでどこを改装したのかよく分からなかった…)常設展を無料で見れるようになっているんだが、それを見たのも影響している。そこには「いろんな所から・いろんなものを・いっぺんに・たくさん、借りている」とでも形容すべき「コンセプトの多重債務者」みたいな作品がいっぱい展示されていて、他人事ながら心配になってしまったからである。もうちょっと「借りるのにご利用は計画的に」したほうがいいのに、みたいな。


ということで、グダグダと纏まり無くなってきたので終わり。やっぱブランクあると文章と構成ダメになるなぁ。