【開催中】植草甚一/マイ・フェイヴァリット・シングス
世田谷文学館
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植草甚一/マイ・フェイヴァ/1908〜1979)は、昭和25年から亡くなる54年まで世田谷(北沢・赤堤・経堂)に居を構えました。早稲田大学で建築を学び、映画館勤務を経て東宝宣伝部に入社しますが、昭和23年、13年間勤務した東宝を砧撮影所の大争議を機に退社、「キネマ旬報」の同人となり、映画評論を書き始めました。以後、ジャズやミステリー、漫画、ファッションなど、同時代カウンター・カルチャーを紹介する記事を雑誌や新聞に盛んに発表し、1960年代後半から70年代にかけて若者文化のシンボル的存在となりました。
この人の最大の功績は「植草文体」とでも呼ぶべき独特のコピーライト/エッセイ文のスタイルを確立・浸透させたことだと思う。例えばこんなタイトルのセンス:
- ヨーロッパ・ジャズのうごきをまずイギリスからデラムレコードでさぐってみよう
- また3枚イギリスの前衛ジャズレコードにぶつかって驚いた
- きょうも暑いからニューヨークにでも重点を置いた話から始めよう
- きょうはアーチー・シェップの状況からはじめていろんな方向へいきたいなあ
- “ロータス・ランドのヤードバード”というチャーリー・パーカーの思い出話にとりかかろう
- むかしむかしクリーヴランドのある町にアルバート・アイラーという少年がいた
マガジンハウスの雑誌の文体の元祖というか。間章の文体の対極にあるみたいな。『平凡パンチ』や流行の最先端の雑誌だったころ(笑)の『スイング・ジャーナル』等を経由して後代に与えたその影響は枚挙に暇がないだろう。
植草甚一 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/植草甚一スクラップブック
植草甚一スクラップブック - Wikipedia
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