いかにして私は抽象的な表現を愛するようになったか

先日来ヴァンデルヴァイザー楽派のことを日記にしていて、ふと思い出したので、自分用にメモメモ。


この日記のプロフィール欄に記しているとおり、俺はもともと聴く音楽に関しては雑食性だった。今でもそうだけど。


この日記は“フリー・インプロヴィゼーション”とか“実験音楽”等というコトバで形容される音楽に比重がおかれているが、俺は別に、昔から「これしかないぜ!」という感じで聴いているわけではなかった。INCUSとかFMPとか存在は知っていたし、たまにアルバム買ったりしていたけど、決して新譜が出たらコンプリートするような聴き方ではなく、たまーに気が向いたときに聴く、という感じ。90年代までは、あくまで色々聴く音楽の中の1ジャンルとして聴いていた記憶がある。


こっち方面(?)にシフトした時期は、1991年ごろ。


きっかけになったのは、実は音楽ではなく、絵画――渋谷のBUNKAMURAで開催された『エゴン・シーレ』だった。


なぜエゴン・シーレ?以下にそのいきさつを記す。


エゴン・シーレ展カタログ。


無駄に豪華な装丁だ。すげえ分厚い厚紙の表紙で、重いのなんのって。91年といえば日本はまさにバブル景気の絶頂期で、日本の企業が無闇と海外の名画を買い漁っていたりしていた頃だから、こういうのに金かけるのが流行っていたのかな。薄給の若造サラリーマンがよく買ったもんだな。


まぁ、展覧会としてはかなり充実した内容だったんだけどさ。


ここで、「晩秋の小さな木(Kleiner Baum im Spätherbst)」という小さな油彩画を観ていたとき....

ふと「あ、俺、いま絵の具を観てるわ」という風に思ったの。画面のテクスチャというかマチエール“だけ”を観てるのに気づいたの。それが(そういう風に思った自分が)凄く面白かった。


「俺、いま絵の具を観てるわ」という考えが頭をよぎって、その時改めて気づいたのは「オレって、アートや音楽に、情念的なものや“青春”ぽいものやエモーショナルなものを、ホント求めてないんだなぁ」ということだった。思春期の自意識大暴走、みたいな衝動を動機付けにしている表現が、つ・く・づ・くダメなんだなぁって。ダメっつーか、そういう感受性に感応する衝動が凄く薄いというか。「あぁイヤだな」という嫌悪感があればまだしも、何も感じないの。対青春インポ、とでもいうか。


エゴン・シーレなんて、青の時代のピカソゴッホムンクジャコメッティなんかと並んで、日本でいちばん熱く・文学的に・語られる画家のひとりじゃない?「孤独な魂の内面とエロスへの憧憬を極限まで赤裸裸に描き切った」とか言われて。ほら、「ハチミツとクローバー」に出てくる美術学校のジジイの教授とかが熱く語りそうな。


坂崎乙郎なんかが典型的だろう。みんな↓ここらへんの本を読んでハマッたんだろうけどさ。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8D%E2%8D%E8%89%B3%98Y/list.html

激しい感情表出、死とエロスの、霊と肉の、赤裸々な相剋を伝える緊張と孤独―。
(完全版・夜の画家たち―表現主義の芸術)

....ですよ。うはぁ。


話を戻すけど、「俺、いま絵の具を観てるわ」と思って、凄く楽になったというか、すとーんと、“腑(ふ)に落ちる”感覚があった。自分が、画面の肌理というかマチエールやテクスチャにしか関心がないんだ、って。“その画家にまつわるエピソード”とか、どんだけ苦悩して描いたかとか、不安と孤独が線に出ている、とか、そういうものに全然興味ないんだな、と思った。


そんで、「あぁ、もう別にいいや、別にそういう“情熱系の語り”に興味も関心もないんだから、無理にそれっぽいコトバを紡がなくたってOKだ」という風に思った。なんか「いいコトバが降りてきたなぁ」みたいな。それで凄くいい気分になって帰宅した。


だから俺の91年のシーレ展というと、生と死とエロスと実存の不安に圧倒されました!とかじゃなくて、逆に「俺、そういうの降りた」という思い出のほうが強いの(笑)。


そんで、この体験がきっかけで、図書館で探したり展覧会に行ったりして、好きになっていった画家って、こんな感じ:

こうして並べると、エゴン・シーレからえらい飛躍だ。


そして、連鎖反応のようにして「そういえば音楽も“情熱・ソウル・情念”系のものに関心がない」のに気づいた。ほら、トランプの神経衰弱や7並べや、オセロなんかで、後半戦になるとパタパタパタと続けざまに札や駒が引っくり返っていくじゃない?あんな感じで「そういやぁ絵もそうだけど、音楽の趣味も同じだ」みたいな。


だから、この手の物言い↓がはびこるタイプの音楽からは、急速に離れていった。

  • 小林秀雄『モオツァルト』→宇野コーホー先生という系譜の、クラシック批評のあーゆー物言い(『のだめカンタービレ』で“ポエム系”と呼ばれるヤツ)
  • ロックとブルースとプロレスを熱く語る、高円寺あたりの兄さん・オジさん
  • いわゆるジャズオヤジ
  • フリー・ジャズのリスナーでも、なんか学生運動とか引きずってる人

あれから十数年。今やこんな“音楽”ばかり聴く人になりましたとさ。