レビュー 5/14 天狗と狐の野外音楽会 vol.1


宇波氏主催の野外ライブに行ってきた。


ヒバリ日誌 - 宇波氏の日記
http://d.hatena.ne.jp/hibarimusic/20060502
hibari music
http://www.hibarimusic.com/
天狗と狐の野外音楽会 vol.1
http://www.hibarimusic.com/j/event/tengue_kitsune.html

場所
二子玉川駅から徒歩10分、多摩川の中州
(略)
ご注意
演奏会場まで辿り着くにあたって、石を足場に川をわたり、草をかきわけていただくことになります。動きやすい服装でおこしください。また、会場は石の転がった"賽の河原"のような状態であり、日を遮るものもございませんので、敷物、日除けなど各自ご用意下さい。現場近くにお手洗いは見あたりませんが、駅まで戻ればきっとあります。また、ゲリラライブのため、なにか問題が生じた場合は逃走します。


事前の天気予報では降水確率60%とかになっていたので、ヤバイかなぁと心配していたのだが、当日は無事雨も上がって良かった。でもあの日、もし多摩川が増水して中州に取り残されたりしたら、数年前に起きた神奈川県の玄倉川水難事故の二の舞になっていただろうか。「ドキュンの川流れ」ならぬ「天狗と狐の川流れ」なんて(笑)。


当日二子玉川駅に集合したのは出演者を含めて約30人。川原のバーベキューや“いぬたま・ねこたま”に行く客とは明らかに異質なメンツばかりで怪しすぎる。宇波氏の先導で多摩川の中洲に移動。前日までぐずついていたにも関わらず、河川敷の地面もほぼ乾いていた。対岸はバーベキューやってたりアンプ使って“普通”の音楽やってたり野球の試合やってたりする。


かなり奥まったところ、葦や薄やセイタカアワダチ草やら様々な雑草が繁茂する中、少し広場のようになって大きな樹が1本立っているたもとが“ライブ会場”。川面に1台、錆びた自転車が逆さまに突き刺さっている。この怪しいメンツが荒れ果てた野原の樹の根元に固まってる図は、なんか青山真治黒沢清が作っちゃう形而上的ゲージツ系映画のセットのようにも見えてくる。俺らはレミング病でつか。


演奏曲目:

  1. 宇波拓:kitsune 5
  2. 杉本拓 : whole and notes
  3. Manfred Werder : 20061
  4. Antoine Beuger:three drops of rain / east wind / ocean(←この題名はもしかして俳句?)

メンバー:

  • 杉本拓:ギター
  • 角田俊也:タンブーラ
  • 大蔵雅彦:アルトサックス
  • 秋山徹次:フォーク・ギター
  • 服部玲治:パーカッション(バウロン?)
  • 宇波拓バンジョー

杉本氏はいつものギルドのジャズ・ギターと、屋外なので乾電池駆動のアンプを用意。角田氏のタンブーラは、インド音楽で「ジョゥォァーン」というドローン音を出すための楽器google:tambura。本格的なインド音楽で使われるヤツは人の背丈くらいの大型の楽器のはずだが、この日の角田氏のはギターくらいの丈の小型の楽器。服部氏のパーカッションは多分アイルランドのバウロンだと思うのだが。キャプテン秋山はいつものヤマハのフォークギター。


演奏されたいずれの曲(3曲目除く)も、プレイヤーがストップウォッチを一斉にスイッチ入れてスタート、(←杉本氏のご指摘により訂正した)譜面に書かれたインストラクションに沿って音を出したり出さなかったり、という展開の音楽。


彼らの音楽に触れた事のあるかたならご存知の通り、演奏する人が音を出すのは数分に1回あるかないか、しかも非常に小さな音で1音ずつ、「コツーン」「ポーン」「ペケ」「フワー」というような音を出していく。開いている間があまりに長いので、聴いてる側は出ている音を“曲”“音楽”として全く認識できない。


これはいったいどういう“音楽”なのか。あちこちで色々批評・議論されているであろうことだが、以下に私見を述べる。


あ、その前にちょっと脱線するけど、もう「沈黙=ジョン・ケージ」つう紋切り型の物言いは止めたほうがいいのではないかと思う。「音楽における沈黙といえばケージ“4分33秒”が有名だが....」みたいな書き出しをするのはどうよ、と。


以前、図書館で俳句の雑誌や本を読んでいたら、初心者と講師陣のQ&Aみたいなコーナーがあって:


「Q: この間俳句誌を読んでおりましたら、まるでピカソの絵のような句を拝見いたしました。このような句を鑑賞するにはどのようにしたらよろしいでしょう(74歳・男)」


みたいな質問があってのけぞった。いわゆる自由律や前衛風の句を指しての質問だと思うのだが、「ピカソの絵みたいな」という形容が通用する世界がまだあることに驚いた。


でも、こういうQ&Aって、絶対にヤラセっつうか編集側で質問/回答を用意してるはずだよね。だから、執筆者・編集者側の自由律や前衛俳句への悪意と敵意と、凄い頭の悪さを感じたなぁ。「沈黙=ジョン・ケージ」っつう物言いも「ピカソの絵みたいな」という物言いと同様に、今やすごくアタマ悪く見えんじゃね?というお話でした。


閑話休題


ヴァンデルヴァイザー楽派の作曲家や、宇波氏、杉本氏らの音楽は、非常に少ない音数・非常に小さな音量・非常に長い沈黙を特徴とするが、それは決して“沈黙の次に美しい音”を追及するのでもなく、沈黙を通して自然との交流や合一を図るのではなく、卑し癒しやニューエイジでも、ましてや禅でもなく(笑)、実は非常にハードコアでエクストリームな“音楽”である。


新英和中辞典 第6版 (研究社)
http://www.excite.co.jp/dictionary/

hard-core
1 徹底した,筋金入りの.
2 〈ポルノ映画・小説など〉極端に露骨な,そのものずばりの.
3 治癒不可能に見える,慢性的な.

extreme
形容詞
1 a 極度の,非常な.
 b 〈寒暑など〉きわめて厳しい,極度の.
2 〈行為・手段など〉極端な,過激な (→moderate).
3 (比較なし) いちばん端の,先端[末端]の.
名詞
1 [しばしば複数形で] 極端; 極度.
2 [複数形で] 両極端.

俺は、彼らの音楽をいわば“裏返したハーシュ・ノイズ”または“虚数のラウド・ミュージック”だという風に捉えているのである。


ハードコアでエクストリームな音楽――いわゆるラウドミュージックとかノイズとかフリー・ジャズとか――の様子は、「〜しまくり」という言葉で形容されることが多い。例えば:

  • 弾きまくり  とか
  • 叩きまくり  とか
  • 叫びまくり  とか
  • 暴れまくり  とか
  • 狂いまくり  とか。

ヴァンデルヴァイザー楽派や杉本拓氏の音楽も、同様にハードコアでエクストリームな音楽である。つまり「〜しまくり」という言葉で形容することができる。例えば:

  • 黙りまくり
  • 沈黙しまくり

いやマジで。ここ笑うとこじゃないから。ホントだって。


つまりこういうことだ。


通常(?)の大音量のライブでは、アンプやPAからの轟音によって聴く側の聴覚を麻痺させて、一種の意識変容状態に持っていく、ということが行なわれる。例えばハーシュ・ノイズとか、トランス系の音楽で踊らせるときとか、あとは故・高柳昌行の“アクションダイレクト”とかもそう。


ヴァンデルヴァイザー楽派や杉本拓氏の音楽は、“聴く側の聴覚を麻痺させて、一種の意識変容状態に持っていく”のに、アンプやPAからの轟音を使用するのではなく、周囲の環境音を使うのだ、と言える。


彼らの音楽(あと、Sachiko-Mや中村としまる氏の演奏とか)をちゃんと(!)聴いたときにどうなるかは、下記の大友良英氏の述懐が典型的なものだろう。


杉本拓論 - 杉本拓、たなべまさえとの鼎談を終えて
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/takusugimoto.html

この手のコンサートに出くわすとまず起こるのは、耳が神経質なくらい敏感に開くことで、最初はちょっとした客席の椅子の音やら洋服のすれる音、外の車の音なんかも非常に気になったりするのだけれど、ある時間、恐らくは2〜30分くらいを超えたあたりから、そういう演奏以外のノイズも含めて、音と音の境界がぼやけて、ある種、ありとあらゆる音が溶けたような独特の体験を耳が仕出すのだ。


大音量のライブでは、ラウドさはPA卓や録音機材などの機械で測定可能である。耳と、PA卓や録音機材のVUメーターの揺れはニアイコール(≒)である。PAのフェーダーのLEDがレッドゾーンに行きまくるようなライブでは終わったあと耳鳴りがしばらく収まらないし、VUメーターが振り切れるような爆音を聴き続けていたら、難聴になってしまう。


ヴァンデルヴァイザー楽派や杉本拓氏の音楽が普通(?)のラウドミュージックと違うのは、これらの音楽がどれだけラウドであるかは、耳が決める、というところである。彼らのラウドさは機械では計測不能だ。これは、彼らの音楽が、聴く側が彼らのパフォーマンスを“音楽”として捉えて“耳を開いて”聴き入ったときのみ、音楽として立ち現れる、ということを示している。


これが、俺がこの手の音楽を“虚数のラウドミュージック”と呼ぶ所以である。


さて、この日の“演奏”のレビューである。


俺は、以上のように彼らの極めてエクストリームなものと捉えている。エクストリームであるということは、本質的に“ヴァイオレント”なことである。彼らの演奏の“暴力性”は、“環境が本来持っている膨大な情報に、わが身が生でじかに曝される”という形で発揮される。それがモロに露わになったのがこの日の河原での演奏だった。


いやぁ、河川敷があれほどサウンド的にもヴィジュアル的にも“ノイジー”だとは思わなかったよ。


サウンド面】

  • 向こう岸のバーベキューや音楽イヴェントの音
  • 鉄橋を渡る電車の音
  • 向こう岸の野球の試合
  • 遠くの道路を走る自動車やバイク
  • オフロードバイクの練習
  • お子様たち:この日のスター(笑)。杉本拓氏の甥ごさんたちだったそうな。集中力増して開いた耳にはマーシャルアンプなみの音量に(笑)。いや、あれで良かった、ホントに。あれがなかったらもっと重苦しいものになっていたに違いない。つーか、実験音楽って「何が起きるか試してみよう」という音楽なわけだから、だとしたら起きるハプニングは多いほうがいいわけで。あそこで「静かにしろ」とか言ったら野暮というか愚の骨頂だよ。あと、大きな声で「音がしないねぇ!」と叫んだボク、グッジョブすぎ(爆)。この日のベスト・パフォーマンス賞。
  • 鳥たち
    • カラス
    • ヒバリ:宇波氏の代わりにまさにヒバリミュージックを!
    • ヨシキリ
    • カワセミ:こんな都会の真中にいるんだ!とびっくり。休憩時間中にこっそり川を見に行ったら、緑色の弾丸のように飛び去っていった。不思議と電子音のような鳴き声で、エレクトロニクス奏者の代わり?

【ヴィジュアル面】

  • 鉄橋上に停車する無人の電車:田園都市線双子玉川駅に引き込み線路がなく、折り返し電車はいったん川の鉄橋の上で待機するようになっているみたいだった。でも無人の電車が川の真上に停車してる絵はかなりシュール。
  • バトントワリングの練習をする人:俺、最初、スター・ウォーズ・キッドの真似してるのかと思った(笑)。川の向こう岸でこちらを向いてずっとバトンの練習をしてたんだが、これが、川の向こうからこっちのミュージシャンを指揮してるみたいで、すっげぇ可笑しかった。しかも演奏は無音(笑)。

んで、俺だけど、2曲目で集中力が尽きた(苦笑)。そりゃあ、屋外の環境の膨大な情報がナマのまま来る状態に置かれるわけだからさ。今回の音楽会で改めて気づいたのは「このタイプの演奏を屋外でやると聞く側の集中力がもたない」ってことかな(笑)。


あと、杉本氏がフリーペーパー「三太」に書いた“ソリッドなもの”と“アトラクティヴなもの”についても色々考えたのだが、その考察はまた改めて。


【参考サイト】
web-cri.com - 「天狗と狐の野外音楽会」第1回 野々村 禎彦
http://www.web-cri.com/
曲と作曲者の解説が詳しい。知らなかった情報が色々と盛り込まれていてありがたい。そうかー、あれは「春の生玉音楽祭」というイヴェントだったのか(笑)>向こう岸


The Beach - “かえる目”の細馬宏通氏の日記
http://www.12kai.com/diarymenu.html


物見遊山日記 - id:nanashima0122 さん
http://d.hatena.ne.jp/nanashima0122/20060514


Tigerlily Scribble - id:Tigerlily さん
http://d.hatena.ne.jp/Tigerlily/20060514#p1